トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその206・角宮悦子

 角宮悦子(つのみや・えつこ)は1936年生まれ。1958年「一路」に入会し山下陸奥に師事。1968年「詩歌」に入会し前田透に師事。1984年の「詩歌」解散後は「はな」を創刊し自ら代表を務めている。1974年に第1歌集『ある緩徐調』を出版。その他『銀の梯子』『はな』『白萩太夫』といった歌集がある。
 角宮の短歌は独特のスケールの大きさが特徴であるが、決して大自然をそっくりそのまま詠み込んだりしているわけではない。むしろ小さなものの中に潜んでいる激しい脈動を捉えることでそのスケール感を演出している。その原風景は、生まれ故郷である網走なのだろう。

  膝つきてひそかに思慕をわが告げし凍土の麦よいかに育たむ


  夫よりも激しき動悸うちながら月光のなか樹液がのぼる


  北方は廃屋となる向日葵が大きく枯れて風に鳴るたび


  夕星の薄荷畑をわれへ来る男は水のやうな掌をして


  山百合を背負ひて来たる少年は百合によごれて朝市に立つ


  月明を吹き割る野分いつの日か失くせし草刈鎌が光りぬ


  氷原をかがやかせつつ夕空は千の林檎を洗ひはじめる

 ある種の北方幻想といえる風景がここにはある。寒々とした世界を描いていても、それがただちに土俗的な村社会の表現には行き着かず、何らかのエキゾティシズムをはらむのが、東北とは違う北海道の特徴だろうか。
 角宮の多用する個性的なモチーフとしては、「縄」がある。また、「卵」「葱」「鞠」など丸いもののイメージも多用される。

  いかなるもの括り終へしか灰色の空に荒縄が揺れてゐる


  夥しき卵の殻が吹かれ来る昼くらぐらと路地の入口


  肩のごと剥かれて青き玉葱が夜の厨房にころがりてゐる


  雪の上(へ)に青き栗の鞠ころがれり神はいかなる遊びをせしや


  乾ききる土葬墓地から人間のまなこを嵌めて野良犬が来る


  卵を持つ魚が遡上する夜を爪先そろへ眠りゆきたり


  汝が胸の下から仰ぎ見たるもの冠状光を放つコロナよ

 「人間のまなこを嵌めて野良犬が来る」などの凄まじいイメージもあるが、角宮が詠む「丸いもの」は葛原妙子の球体幻想に通じるようなはたらきを持っている。そして「丸いもの」が「夜の厨房」「雪の上」「土葬墓地」といった冷気を感じさせるモチーフとともに登場するのも示唆的である。

  われのみのものと思はぬに寝室へ葱にほはせて行く母憎む


  翅ちぎりて蜻蛉を空へ放ちやるまた母の中へ還る夕べを


  青みどろ擂鉢型の水底へ夏の子供がさらはれにけり


  うしろ向き母が行李につめゐるは火を抱くことなき藁灰ばかり


  母が干してゆきたる蒲団とりこめば生肝ちぎるばかりの野分


  行商の人形売りは杳き世へわれの子供を雪に埋め来し


  母の鏡割れてとどけり網走市沙名町二番荷札をつけて

 そして角宮にとってのトラウマとして残り続けている存在が「母」のようである。母に対する複雑な感情が歌全体にあらわれている。角宮の描く母は、蜻蛉の翅や藁灰や蒲団など何かを「置き去り」にして残してゆく。その果てに行き着くのは、作中主体自身が「置き去り」にされているイメージである。「網走市沙名町」という地名は、実在が確認できない。果たしてそのような町は本当にあるのだろうか。「さらわれた子供」のイメージがたびたび登場するのも気になるところである。
 冷気を感じさせながら土俗性までにはいかない凛とした北方像を描写する幻想歌人として、角宮悦子はもっと読まれてもいいのではないかと思う。

白萩太夫―角宮悦子歌集 (現代女流短歌全集)

白萩太夫―角宮悦子歌集 (現代女流短歌全集)