藤沢螢(ふじさわ・けい)は別名・久木田真紀、1970年モスクワ生まれ…というのは仮のプロフィール。1989年に久木田真紀の名前を使って応募した「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」で、第32回短歌研究新人賞を受賞した。その時19歳の女性というプロフィールでデビューしていたが、オーストラリア在住のため人前に登場することは難しいと主張しながら作品を発表していた。そしてその後に、実際は中年の男性によるプロフィール偽装であったことが判明したのである。ちなみに受賞時に使用していた女性の写真は、姪のものだったと言われている。
作者は藤沢螢に名を改めて(これもペンネームである)1997年に歌集「時間の矢に始まりはあるか」を刊行した。そして現在、藤沢は短歌雑誌などに作品の発表を一切行なっていない。本人が断っているのか、全く依頼が行っていないのかは不明である。
音楽史タクトはむかし羊飼いの少年の手にありし若枝
〈源氏〉から〈伊勢〉へ男を駆けぬける女教師のまだ恋知らず
槍の穂に唇あてている彼とユダとの年の差が二千年
楕円形便座の上で口ずさむランボーの詩の気になる部分
白桃の縫い目にそって朝の歯をあてるとき悲しみは湧きくる
ジーンズを脱げばたちまち静脈の支線の絡みあえるさみどり
恋人よわが家といえば杏咲く家の真南おいで下さい
これらが「19歳の歌人・久木田真紀」の時代に発表された歌なのであるが、非常に巧い。知性と青春性をとても高いレベルで両立させることに成功していて、前衛短歌の後に来たライトヴァースの一つの到達点ともいえる完成度を保持している。これらの作品を見る限り、(偽の)プロフィールの力で賞をとったわけではなく、純粋に実力での受賞だろう。
告天使たれかに告げよ「ノアノア」の男を想うほどの蒼空
きみという男をめぐり月光と吾(あ)とが互(かたみ)に唇(くち)うばいあう
女とは天衣無縫にあらざれば抱けよ夏暁にひかり差すまで
わたしよりずっと背のあるきみだから水平線もきっと遠いね
夏雲ゆ一握の銀つかみだすきみは耳うらさえもこいびと
あかねさす嘘から真実(まこと)どっちみち詩歌とは男ごろしの玩具
そして作中主体が女性という設定をそのまま維持した歌も多く詠まれており、これらも一定のクオリティを保っている。最後の歌などは確信犯の本音が漏れた部分なのだろうか。何にせよ、久木田真紀の存在は現代短歌史のなかではたまに異色の一エピソードとして語られる程度で流され続けている。
夏深し湾岸暴走族首領(ヘッド)JACKはダラス生まれの少年(チキン)
しばしばも思う〈下人の行方〉とはこの帝国のことにあらずや
マリファナと銃とAIDSの輪唱がこの国を誤らせるだろう
元ボクサーと一目でわかるその腫れた目蓋で奴がウィンクをする
「知ってる」と言うときサイレントのKが聞こえてくるなれヴィヴィアン・リーよ
独白のドラマツルギー「白人にすり寄るアンクル・トムはおまえだ」
われがもし砂漠で死ねば肋骨はハープのように残るだろうか
「時間の矢に始まりはあるか」という歌集の最大の特徴は、その半分以上がアメリカに関する歌で占められていることである。実際に作者が留学中であるかのような雰囲気があり、摩天楼やスラム街の描写がときに卑語を用いながら繰り返し描かれ続ける。また、湾岸戦争に対して批判的な声をあげる社会詠もある。正直なところ、このアメリカを舞台にした一連の作品は、冒頭部の青春詠と比べていまひとつ出来が悪い。はすっぱな女性像を作中主体として築き上げた結果、言葉の一つ一つがどうにも嘘くさくなっている。しかし実際はガラス細工のように丁寧に彫り上げた青春詠よりも、このアメリカ詠の方が作者の素顔に近いのかもしれない。ある意味、アメリカ詠という疵があったからこそ、綿密な計算と修辞技術だけでは出し得なかった「危うさ」を醸し出せたのだろう。