トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその184・滝沢亘

 滝沢亘(たきざわ・わたる)は1925年生まれ。立正大学文学部中退。1942年に「多磨」入会、1953年に「形成」に入会し、木俣修に師事。少年時より肺病と闘い、サナトリウムに入りながら作歌活動を続けた。1966年、41歳で没した。
 1963年刊行の第1歌集「白鳥の歌」は、タイトルからして白鳥がいまわのきわに美しく鳴くという伝説からとっている。常に死を眼前に意識しながら歌に向かっていたわけである。

  鰯雲北にかがやきこころいたし結核家系われにて終る


  風落ちし冬樹のほとりしづかにて人亡きあとのごとく日が射す


  北風にのりて夜汽車の音ながし一つの時代まざまざと終ふ


  火に落ちし髪一すぢが玉なして灼け終へしとき寂しさは来つ


  一代で終るいのちにふと気付く唾涸れてたどりつきしベッドに


  サモンピンクの空は流れのごとくにてかく美しき日もさまざまに死す

 「終る」をモチーフとした歌がやはり目立つ。自身の生命の終りということだけではなく、世界に遍在するあらゆる「終り」が滝沢の目には見えているのだろう。有限な世界を生きる者の、あまりに強くあまりに悲しいまなざしだ。

  かすかなる貧血のして跼むとき餃子(ギョウザ)は炒らるひるのテレビに

 
  ウェディングマーチの鳴れるテレビよりのがれ来りて複雑にゐつ  


  トウシューズにゆらぐ少女のフォーム見つ一つの愛の終るテレビに


  枯れてゆく思想といへば嘘にならむひらめきやめぬ夜のブラウン管


  民衆がその同胞を撃たむとしさびしきかなテレビに淡雪は降る

 「白鳥の歌」所収の歌は滝沢がサナトリウムに入っていた1950年代末に詠まれたものが多いのだが、当時としては珍しいテレビを題材とした歌が散見される。カラーテレビが各家庭に普及する少し前のことなので、サナトリウムにいたからこそ共用のテレビを見る機会が多かったのだろう。そして遠い世界の画面を映しだすテレビにロマンをかき立てられているような印象を受ける。

  キャラメルの函にてつくりしエッフェル塔とどまりがたき夕光に置く


  われもまた stray sheep 茫々とさびしき午後の部屋に首振る


  米兵の愛の手紙を訳しやる女の好む言葉まじへて


  オープンカー疾駆し去れりすこやかに富む者のもつ明快を見よ


  禁犯し掌よりミルクを与へをり秘楽めきつつ粗き猫の舌


  頒ちたるチョコを車中にて唇にすと書きよこす乙女よ再び病むな

 60年代の前衛短歌のムーブメントのなかでは、反前衛のスタンスに立つ歌人も少なくなかった。多くは中堅やベテラン以上の年齢層だったが、滝沢は珍しく反前衛の若手の一人であり、病む身体をおしながら岡井隆と激しく論争を繰り広げたこともある。しかし滝沢の没後にその歌をあらためてとりあげ積極的に評価したのは、かつての論敵であった岡井隆自身であった。その理由はなんとなくわかる。滝沢の作風は実は結構モダンで清新なものだった。サナトリウムという環境で育まれた世界観のロマン的な側面を、岡井はしっかりと捉えていたのだろうと思う。西洋的モチーフが目立つのも、テレビをよく詠んでいたことも、限られた生のなかにいながら新しい世界への興味をつねに忘れていなかったからではないかと思う。そのため単に死を待つ者のドラマにはとどまらない、痛切さのなかにある生きることへの執念のようなものが、強く感じられるのである。

滝沢亘歌集 (現代歌人文庫 12)

滝沢亘歌集 (現代歌人文庫 12)