トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその181・三枝浩樹

 三枝浩樹(さいぐさ・ひろき)は1946年生まれ。法政大学文学部英文学科卒業。「沃野」「風車」「反措定」「かりん」を経て1992年「りとむ」創刊に参加。植松寿樹、植田多喜子に師事。歌人の一家に育ち、兄の三枝昂之も著名な歌人である。
 兄の三枝昂之は思想的・思索的でやや難解な作風であるが、三枝浩樹は清新かつ叙情的で、比較的平易な作風である。とりわけ初期は「少年」を好んで歌のテーマとする傾向がある。

  喉仏さらして仰ぐ冬ぞらのいさぎよきその遠さを愛す


  砂浜は海よりはやく昏れゆけり 伝えむとして口ごもる愛


  街路樹に陽はさしながら昏れゆけりわれのなかなる〈ユーリー・ジバゴ〉


  喚びかえしおりついおくを、少年の首はさながらキリンのようだ


  一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷


  〈少年〉の声に呼ばれてめくりゆく古きノートのなかの夕焼け


  少年も果実のように熟れていくうれて失う問いをかかえて

 この「少年」のイメージにはもう決して取り戻せないという悲痛な喪失感がある。この切なさは魅力的だ。ただその本質にあるものは単純なノスタルジアではないように思う。むしろ「孤独」を強く感じる。少年性が背負わざるをえない孤独。むき出しの傷。

  わが内部かけめぐる死のロンドみゆ 透明なまで弦鳴りやまず


  夕焼けに抱かれながら陰影にみちみちていま謳う、ポプラは


  チェンバロの銀の驟雨に眼を閉ざす 樹も樹の翳も寂かなる午後


  さっきまで海をみていしまなざしをしずかに閉じてわがまえにたつ
  

  街はいま四月の雨にけぶりおりガーベラの火を選る繊い指


  たつた一つの言葉のなかに帰すること 皮むきて食む枇杷のつゆけさ

 三枝の歌には「影」が満ちている。戦後生まれの三枝は青春期に「政治の時代」を生き、前衛短歌の時代を生きた。そしてその果てには挫折や苦悩があった。しかし具体的な事件や経験を詠むことはあまりなく(樺美智子などの強い象徴性を持った固有名詞が登場することはあるが)、抽象的な表現のなかに思いをとどめていく。そのため、どのような闘いや苦悩を経験してきたのかはいまひとつわからない。しかしそれゆえに普遍的な抒情を獲得している部分も確かにある。

  冬ぞらへ窓あけはなつあけがたのうら若き交感の光よ!


  樺美智子へ! もし一片の恥あらばわが魂の四肢の十字架


  ああ語るな 炎ゆることなきくれがたを九月の窓に倚りて眺めよ


  レギーネへ! 僕の記憶の拡がりの中枢の水ぎわだつかがやきへ


  ああソーニャ、霜おく髪の孤独より失意よりわれを発たしむなかれ

 何かに向かって呼びかける歌の多さ。これは声を届けるためではなく、内なる自分に訴えかけている祈りのような歌であろう。兄三枝昂之の〈まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ〉という歌も想起させるし、あるいは吉増剛造の初期の詩篇にも何かしら通じる部分があるようにも思う。「戻らないものに呼びかける」ことは常に祈りの意味合いを帯びている。エバーグリーンな青春歌人として、三枝浩樹はもっと読まれてもいい歌人であると思う。

三枝浩樹歌集 続 (現代短歌文庫)

三枝浩樹歌集 続 (現代短歌文庫)