山崎方代(やまざき・ほうだい)は1914年生まれ、1985年没。出征先のティモール島で右目を負傷し、失明。左目もかなりの弱視となった。戦後は傷痍軍人の職業訓練で教わった靴の修理を生業に、妻子も定住先も持たず放浪しながら生活した。山下陸奥の歌誌「一路」への投歌を経て、「泥」「黄」「工人」など同人誌を拠点に活動した。
戦後を代表する無頼派歌人である山崎方代については、歌人よりもむしろ種田山頭火などの自由律俳人と近い括りで扱われたりする。文学者としてよりも人間としての彼らに憧れ、その生涯に惹かれる人が多いのだろう。
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
いつまでも転んでいるといつまでもそのまま転んで暮したくなる
かたわらの土瓶もすでに眠りおる淋しいことにけじめはないよ
宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉
秋が来て夕日が赤い来年もこんな夕日にあいたいものだ
生れは甲州鶯宿峠(おうしゅくとうげ)に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ
このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている
孤独な老人が心からの独り言を洩らしたような口語短歌。いってみればボヤキ。それが方代の作風である。ある意味では誰にも当てはまる心情を歌っているからこそ、共感を呼ぶのだろう。しかしいかんせん彼はそんなに簡単な人間ではない。方代の写真では、分厚い瓶底メガネにさらにルーペを使って読書をしている姿が印象に残っている。別に歌を作るだけなら本を読まなくてもいい。しかしそこまでして読まなくてはならなかった理由が、あの写真の姿には感じられる。
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
白い靴一つ仕上げて人なみに方代も春を待っているなり
夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である
しみじみと三月の空ははれあがりもしもし山崎方代ですが
早生れの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる
六十歳を過ぎた頃よりようやくに見合いの数も落ちて来にけり
そこだけが黄昏ていて一本の指が歩いてゆくではないか
山崎方代とは本名なのだが、それをそのまま歌に詠み込むということを多く行なっている。そして自分自身を歌の世界の登場人物の一人として据えて、徹底的なまでに自己戯画化を進めている。ここでの「山崎方代」はイメージの中で消費されるキャラクターである。あえてそういう詠み方をとったのは、「消費」というのが戦後という時代の行動原理でありまた病理でもあるということを感じ取っていたからこそのシニカルな方法論だったのではないかと思える。
くろがねの錆びたる舌が垂れている鬼はいつでも一人である
しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ
かぎりなき雨の中なる一本の雨すら土を輝きて打つ
もう姉も遠い三途の河あたり小さな寺のおみくじを引く
あかあかとほほけて並ぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ
地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし
死というテーマが繰り返し歌われるが、それ以上に「鬼」と「地獄」のイメージが印象的である。方代にとって地獄とは現世そのものであり、死は救済だったのではないかと思えるほどだ。
月刊「短歌」に連載されていた「共同研究 前衛短歌とは何だったのか」のなかで、戦後の短歌史の中で山崎方代は反前衛の陣営に加わる立場であったことを知った。確かに、寺山修司などが導入した演劇的な自己演出とはかなり位相が違うように感じられる。方代にとって「地獄」は幻想空間ではなく日常に隣り合ったものであり、そして生と死も一対のものではなく、繋がりあったものという認識があったのだろう。そういうことを考えると、従軍経験があまりに濃厚に歌の中に影を落としているのだろうことが想像できるのである。
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