細溝洋子(ほそみぞ・ようこ)は1956年生まれ。名古屋大学文学部国史学科卒業。1989年「心の花」入会。2006年、「コントラバス」で第18回歌壇賞受賞。歌集に「コントラバス」(2008)がある。
口語と文語を適度に混じらせたソフトな作風であるが、やわらかで明るい雰囲気のなかにどこか不穏さが漂い続けている。それは、この作者独特の離人感覚にあるように思う。
スクランブル交差点斜めに渡るとき高層の窓にわれの目のある
「はい?」という口癖指摘されてより私はわたしの言葉見張りき
地下駅の鏡に映る一瞬が見知らぬ人にとってのわたし
選ばなかった側から見えるこちら側いくつの影が滲むのだろう
筆名を持たばあるいはわたくしに響くコントラバスの低音
アンケートまた頼まれて名前なき私がえがくいびつなる円
少しだけ背伸びしてみる春であるあなたから見える私だろうか
「他者から見えるもう一人の私」というモチーフに非常に執着している。視点が他者に移動する、それだけのことでまるで異世界にワープしたような認識を持っている。やわらかな言葉の向うに、常に自己客観視を自らに対して律しているような神経質さがあるように感じられる。
誰のせいでもないという嘘 対岸のすすきが散らす光見ており
次々に芯が出てくるえんぴつの芯、と私を思う日のある
俺という一人称を持たざれば伝えきれない奔流のある
窓から窓へ紙飛行機を飛ばすように少し無理して伝えたいこと
不等号のいずれが開く我らかと手を振る人に手を振り返す
感情の蛇口ゆるみてほたほたと零るる場所にときおり戻る
自分の名前だんだん好きになることは何かが細くなってゆくこと
約束は美しくない花束のようで やっぱり渡せなかった
ときにあふれそうになる自分の感情を、伝える手段がない。適切に処理する方法がわからない。そういった苦悩の中を生きてきたことが、独特の離人感覚につながっているのではないかと思う。自分をコントロールしたいという思いと、コントロール出来ないままの自分を誰かに受け止めて欲しいと願う思いのはざまで、言葉が生まれているのだろう。
速達を出してそこだけ早くなる時間の帯を思うしばらく
夜のポストにしばらく立てり静まりて他の封書になじみゆくまで
とおり雨その美しき響きもて過ぎ去るものを目を閉じて聴く
羽根あると思う手紙とそうでない手紙とありて同時に来たる
パスワード忘れて取りに戻れない記憶のように昼の三日月
雪となるまぎわの雨を受け止めて水の花咲くフロントガラス
鳥の群れいっせいに向きを変えるとき裏返さるる一枚の空
また、比喩によって世界を的確に把握する技術にも非常に優れた歌人である。複数の「自己」への苦悩をいったん押し戻し、同じように客観的な目で見る世界。そこはたくさんの驚きと喜びにあふれた世界でもあった。鳥たちが空を裏返すように、自分もまた世界を裏返して変えてしまえる瞬間を待っている。その時を信じてみたいというポジティブさも、細溝の歌には満ちている。細溝の抱える苦悩も希望も、きっと多くの人が共有しているものだろう。作者の年齢や職業などのプライバシーを読み取りづらいタイプの作風なのであるが、それはかえって功を奏しているように思う。高い修辞技術とともに、良き普遍性を持った歌である。
- 作者: 細溝洋子
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