トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその161・島内景二

 島内景二(しまうち・けいじ)は1955年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院修了。古典文学を専門とする国文学者であり、電気通信大学の教授を務める。その一方で塚本邦雄に師事した歌人でもあり、1985年の創刊準備号から「玲瓏」に参加している。
 笠間書院のシリーズ「コレクション日本歌人選」では塚本邦雄の巻を担当しており、自身の回想も多分に含め塚本の生の人物像に迫りながらの評論を著している。その中でも印象的だった一節は、「私は二十歳頃から塚本に師事した弟子であるが、塚本の周囲にいる青年歌人たちの多くが美貌の持ち主であることと、何人か体育会系的な好漢が交じっていることが、ずっとコンプレックスの種だった。」。想像するだけでなんともなまめかしい風景である。
 島内の第一歌集「夢の遺伝子」は2011年の刊行。大学生時代から含めた30年以上に及ぶ期間の歌が収められている。

  視野の果て飛行機ひとつ逃れ去る他界はゆかしからざる恋路


  薔薇一重蒼ざめてなほ夕暮れず記憶の底に佇(た)つ若き父


  海の碧(あを)に染まずさまよふ壮年の蒼きジーンズ夏よ終はるな


  少年の日日の画集は色褪せず表紙(カヴァー)の少女のみ薄るれど


  智慧はかなしアリストテレス捕縛され孔子(くじ)も羅什(らじふ)も子を生(な)しきとぞ


  音楽の王国逐はれピアニスト亡命の日の哀しみ奏づ


  わが心涸れし朽井(くちゐ)か真清水よ溢れわたしにわたしをかへせ

 「玲瓏」初期の作品群である。師の影響の濃いきらびやかな修辞と青春性が印象的であり、また学徒らしいペダンティックさもある。「夢の遺伝子」は1ページ4首組みでかなりの歌数にのぼる。まさに歌にかけた青春の決算である。

  童(わらべ)らは悲しきことを平然と「隣は餓鬼を食ふ人ぞ」とや


  持唄(もちうた)を思ひだせない歌手わらふ五十四帖(ごじふしでふ)も言へない学者


  不吉なる左回りの塁上に累累と野球選手の死骸


  歌垣をあそぶ早熟幼稚園園児が花いちもんめに夢中


  「次は目白」、いつたい何を乗客に自白をせよと言ふのだらうか


  あがるのかあがらないのかわからないけれども「うだつ」の屋根の風景

 しかし作者の個性が出ていると感じるのはこうした笑いの歌であるように思う。エスプリは塚本邦雄も得意としていたところで島内自身もその資質を論じているが、島内は皮肉と言葉遊びを笑いの中心に据えており、そこは微妙に師と異なる部分であるように思う。
 歌集には、他者を自己の中に取り込むような「なりかわり」を実験した連作が多い。「桐壺帝のうたへる」という一連からである。

  君とあふ以前の日日は消去され君とゐる日が生きてゐる刻


  生きてゐただけの日さらば今日よりの生きてゆく日に桐の花咲く


  きのふまで制度内存在であつた僕これで「人間」になれるとおもふ


  君と僕の契りはなほもつづいてゐる僕の手にある一顆の珠玉

 「源氏物語」の登場人物になりかわった歌である(ほかにも「薫のうたへる」という一連もある)。それがやわらかな口語で綴られているところに、人間の心の普遍を信じる気持ちが垣間見えるようだ。夏目漱石の「こゝろ」に題をとった「掛け合ひ旋頭歌 『こゝろ』」もユニークな試みである。島内にとって短歌とは自分以外の誰かに憑依し、心を共有してゆくための魔法だったのだろう。
 あとがきに付せられた「ある破戒」という副題は、塚本自身に「自分が歌人になれるなどと思ふな」と戒められたことに背いて歌集を出し「歌人」となったことに由来している。そしてあとがきにて自ら「現実世界に対する愛や憎悪のエネルギーが、私の歌には不足してゐる。」と分析している。確かに愛や憎悪のエネルギーはすべての創作の原点だ。しかし、文学という表現形態は他者のそういったエネルギーを無限に取り込んでいけるのではないかという確信が、この破戒へと向かわせたように思う。島内を歌人にさせたのは、その心の内部に煮えたぎる衝動ではなく、文学への(さらにいえば日本語への)深い愛と尊敬であろう。師のためでも自分のためでもなく、「文学」に対して捧げられた歌たち。こうした動機で詠まれた歌があるのも面白いことである。

塚本邦雄 (コレクション日本歌人選)

塚本邦雄 (コレクション日本歌人選)