トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその149・岸野亜紗子

 岸野亜紗子(きしの・あさこ)は1978年生まれ。早稲田大学第二文学部卒。2001年「朔日」に入会し、外塚喬に師事。「sai」にも参加している。歌集は出していないが、アンソロジー「太陽の舟」(2007)にて作品の抜粋が読める。

  みんなみんなほそい弦です 雨の海の出口をふさぐ鋼鉄の橋


  いつさいのあやふやなものぬぐはれてひとの背丈の釘が並ぶ日


  ふせぐもの何もなければ雨の日の毛をむしられたような海面


  蓋をして煮ればこんなにやはらかく白き手羽先 にげばなどない


  たぷたぷと夜空の腫れてゐるあたり山手線に触れてゐる街


  もうしがみつかなくていい 微風に裁断くづがもつれつつ飛ぶ

 都市詠といえる歌が多い。「背丈の釘」や「手羽先」のメタファー、「毛をむしられたような」という直喩、いずれもしびれるほどうまい。「出口がない」「同じところを堂々巡りする」といった表現が頻出し、細長いものや風に流されるものを好んでモチーフとする傾向にある。これはやはり作者自身の不安定な心情が反映されているのだろう。
 「太陽の舟」の自己紹介がわりのエッセイには、自らの職歴(そのほとんどがアルバイトである)が時系列でずらずらと並べてある。それだけ「仕事」が深くアイデンティティに関わっているのだろう。

  ぷるぷるとふるへるものを断つやうにタイムカードを通さむけふも


  けふもまた埠頭には波寄せてゐむ伝票整理とどこほる間も


  鋤きかへす腕を持ちつつ海よりも暗く眠れる豊洲、おやすみ


  くらげなす浮島本線より来しが営業日報残して去りぬ


  かたくなに平行である螢光灯あるいはわれのゆかざりし道


  バーコード読ませる指は他人からは読み取りづらい私の一部


  社員用休憩室の昼下がり母たちと娘たち棲み分ける


  踏切で通過を待てば そこで待て そこで待てといふレールの響き

 これらの歌は労働詠といえる部分を大きく持っている。もっとも本当に労働の只中にあるのは伝票整理やバーコードの歌くらいで、通勤や昼休みといった労働の周縁部分に力点が置かれているのがわかる。ぐにゃぐにゃとした「私」を固定する枠組みとして仕事や職業というものはあり、枠組みであるために究極的に周縁部分にしかなりえない。「私」の本質にはどこまでも届かないものであるにも関わらず、「私」は「私」を規定化するものを必要としている。そういう実感があるのだろう。

  この街の夜のひかりは地上にはをさまりきらぬパンのパンくづ


  わがうちにあらんかぎりの街を染め来む暁を思ひて眠る


  夏草は砂利を覆ひて茂りをり甘え続けたわれは捨てられ


  月面の静寂は見ゆ癒ゆることと残らぬこととは違ふけれども


  温室はたのしいところ 一枚といはずにもつと脱げといふ木々


  はるぢよをんいたるところに揺れてゐてあなたの良さをわかつてくれる


  海面かさうでないかの境目のつねに正しき岸壁は見ゆ

 いつ流れて消えてしまうかもわからないような不定型の自我を、「仕事」「街」「自然」といった枠組みで規定し必死に氾濫を防いでいる。そんな印象の残る息苦しさのある歌だ。しかしこの息苦しさは決して自我の内部に閉じてはいない。不定形であるがために外部に開かれており、世界に対する苦しさを重層的な比喩によって見事に伝えている。もしかすると岸野が息苦しさを共有し同化しようとしているのは他者ではなく、自らを取り囲んでいる「都市」そのものなのかもしれない。短歌のなかに他者が登場しないことを、自己中心性のあらわれと単純に判断するのは間違いの可能性がある。他者性は生きた人間の中にだけあるものではなく、都市や風景の中にも内包されている。岸野の短歌は、そのことに気付かせてくれるような歌である。

岸野亜紗子ホームページ。過去作品の一部が読める。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/5178/