トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその113・栗原寛

 栗原寛(くりはら・ひろし)は1979年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1997年より「朔日」同人。2005年に第1歌集「月と自転車」を出している。
 師にあたる外塚喬の解説からは、古典文学を専攻していて、合唱団でピアノや指揮をしていたこと、東京都出身ではあるが奥多摩の山間地域で育ったらしいことがわかる。「古典」「音楽」「奥多摩」はいずれも歌を読むにあたって重要なキーワードであるように思う。

  月よりの使者ならむ君はその手より光の粒をこぼしほほゑむ
  黒いあの空に祈つてガニュメデスかがやくものを僕は見たんだ
  願ひとはまた祈りとは 永遠に若き半裸の胸をさらして
  百年前ときつと変はらぬ響きならん少年の憩ふ大樹の下は
  炎天の校庭 体操着のきみと僕と引きたる真つ白な線
  少年の爛熟ゆゑにさらさるる腋下は秘めし影をあらはす
  変声期をむかへたるボーイソプラノのごとく桜の散りしく真昼
 歌集には「少年」という言葉が頻出する。その描かれ方は春日井建を思わせ、さわやかながらも耽美的なエロスもたたえている。この「少年」は作者自身の自画像ではなく、作者が演出する舞台の上の俳優といった雰囲気がある。その一方で「炎天の校庭」のように学校生活のスケッチが混じってくる。神話的な「ガニュメデス」と追憶のような「体操着のきみと僕」が交錯するとき、そこには陽炎のような遠い熱気が感じられてくる。

  わが内におしこまれくる塊をいざ受け容れむ腕をさしあぐ
  その先端よりしたたれる雫ひとつ 背骨にそひて這はせたる指
  男にて生ませざること男にて生みたしと思ふこと罪なりや
  目を閉ぢれば愛撫は同じ響きにてウォーターベッドに沈みゆくのみ
  真夜中にはたと目覚める肉叢(ししむら)の欲する夢を口にくはへる
  死にたしと思ふ心と生きたしと思ふ身体と空を見てゐる
  膝頭のあたりにふくらみのあるズボンわれは膝より下が短し
 しかし耽美的なモチーフを扱うこともありながら、こういった匂い立ってくるような身体へのアプローチが散見されることも特徴である。ときには心とばらばらになり、異物のように立ち塞がってくる身体というモチーフへのこだわりを見せている。だが解説で外塚喬が書くように、「身体を媒介として現実を超えた非現実的な世界を模索している」部分がある。自らのこの身体、ときに思いのままにならないこの身体をあくまで携えたまま異世界へ旅立つことを希求している。そんな印象がある。

  水紋のやうにひろがるその声はわがししむらに入りて息づく  外塚喬
  夢を見るならば楽しき夢を見るために枕の高さを変へる
 身体感覚を失わないままに「夢」へとつながろうとする。そういった傾向は師である外塚からの影響なのだろう。

  流れゆくナイトラインを見下ろして君には言はぬ三つのひみつ
  落書きのあてのなき問ひ Do you love me? No,I don't. 君など知らぬ
  男らしさを誇示する人の多ければ西武池袋線はまたせまくなる
  音もなき真昼間の白ふりつもる雪のかたちに街は消えゆく
  紳士服売場の白・黒・灰・茶・紺 男社会は曇天である
  人のをらぬ改札口を通り過ぎやうやく僕の無言劇果つ
 都市社会を切り取ってみせた歌も多い。どこか冷たく、つねに冬の似合うような都市描写である。学校生活の「追憶」が夏の香りをまとっていたことと対照的だ。栗原にとって都市とは男性的なものであるようだ。「男らしさ」を強いる社会への反発というのも、栗原の短歌を支えている一つの要素である。そして栗原のジェンダーへの意識は、他者との関係性よりもむしろ自身の身体そのものから発しているものなのかもしれないとも思えてくるのである。