トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその104・斉藤光悦

 斉藤光悦(さいとう・こうえつ)は1962年生まれ。明治大学法学部卒業。1988年、加藤克巳の「個性」に入会。1992年に第1歌集「群青の宙」を出している。1993年、個性新人賞受賞。「個性」解散後は沖ななもの「熾」に寄っていたが休会しているそうである。
 加藤克巳門下で同世代の歌人としては吉野裕之がいるが、斉藤光悦もまた加藤克巳の方法論を受け継ぎつつも吉野に負けないくらいの魅力を持った歌人である。吉野の歌の都会的なスマートさとは対照的に、男くさい感傷の世界を描こうとする傾向にある。

  タクシーを右腕で呼び左手でYES・NOをさぐる君の指から

  まっすぐに進んで次第に遠ざかれその角で不意に消えたりせずに

  高層ビルのレッドランプの点滅とともにつぶやく さよなら、さよなら

  うす蒼いたそがれの空気を呼吸するちょっとさびしくやがてかなしく

  シャボン玉のなか少年の僕がいる デカダンしようよ 夕明かりだ、ほら

  真っ白な積乱雲に突き刺され天球は青い血を滴らす

  君の中に生きていた俺も死んだのだ晩春の名古屋港の夕凪

  あれからの生活はずっと平坦で時おり横向く車窓の自画像

 第1歌集「群青の宙」は青春歌集であり、また青春への訣別の歌集でもある。無頼で男くさい世界を志向しているが、平面的な自己から逃れられない自分もまた見つめている。出口のないかなしみで満ちているゆえに逆に淡々としているようにさえ見えてしまう。「デカダン」というのは斉藤の短歌のキーワードであり、虚無に憧れ退廃を求める精神がバックボーンとなっている。どんなにはしゃいでいても虚しい。青春が輝かしければ輝かしいほどからっぽだ。それはもしかして、バブル世代特有の虚無感なのかもしれない。

  子宮へと俺をみちびく肉体をもてあましている認識がある
  <終わりじゃない。まだ終わってない、追いかけろ>されどバラバラ意志とからだは

  サビシサが抽象から物質になり体外へ飛び出すような秋の風だ

  冬の朝きらめく光にめまいして立ちつくしたり 存在って な に

  銀杏木の 裸の枝の 切っ先に 貫かれた月。 うすっぺらな、丸
  さみしさの球体となり夕空をふわふわと飛ぶ私であるか

 円や球体のイメージ、身体と精神のばらばら感覚というのは加藤克巳からの色濃い影響があらわれている部分である。ライトヴァースのムードを保ちつつも歪みのある読み心地は、こうしたシュールリアリズム的な部分があるからだろう。身体を離れて観念だけの存在になり、逆に観念だけの存在が実体化していく。そんなカオスをどこかで強く求めている。

  ごみ箱に記憶のファイル捨てられて生きながらえる実験動物

  刻々とデータ更新されつづけるワタクシという記憶装置

  百億の眼球と一個の巨大球 回り続けるオブジェのように

  キーボード十本の指が打ち続くかちゃかちゃかちゃかちゃ思惟が踊る

  太陽の周りをおよそ八十回まわって最後に君とさよなら

  父として死ぬまで生きてゆくのだろう息子としての生をすぼめて

 これらは歌集以後の作品。2000年に埼玉文芸賞佳作となった連作「DNAと記憶と死」からである。最先端テクノロジーを題材にとりつつ、最終的にこだわっているテーマは自我である。自分とは何か、私とは誰か。その単純素朴なテーマを一貫して追いかけ続けている。この間父親になるという大きな変化があったようであるが、その変化もまた自己という謎をさらに深めていく結果になったのかもしれない。こうした徹底的に内省的な雰囲気を持ちながらもスタイリッシュさは決して失わない歌を詠める歌人がいることは、加藤克巳の貴重な遺産であると思う。