トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその81・尾崎朗子

 尾崎朗子は1965年生まれ。1999年に「かりん」に入会し、2008年に第1歌集「蝉観音」を刊行した。もっとも歌集にはパーソナルなデータはあまり触れられておらず(年齢も、歌集には書かれておらずこの歌集が評されている文にて知った)。歌の中にだけあらわれる〈私〉を見てほしいというような凛とした意志を感じる。歌集のあとがきには「小さな頃から"居場所"というものを切に求めていました。」「歌を詠みはじめると自分のなかに閉じ込めていた〈わたし〉が主張するようになりました。」と書かれている。周囲にあわせてきた自分を決して肯定できないという地点から歌が出発しており、そこから強烈な我の意識が生まれている。

  われ十歩歩めば同じ速度にて十歩前ゆく炎ゆる逃げ水

  わがうちに激しきリズムわきあがり踏めば踏むほど靴音かなし

  ほほゑみて相槌うてどYESぢやない わたしはわたしの笑顔がきらい

  われ捨てし人死にたまふ大晦日つひに二度目の孤児(みなしご)となる

  留守番はきらい そのまま日が暮れて忘れさられし真夏のこども

  わたくしの指輪の下の白き輪に見え隠れするおびえし朱儒(こびと)

  満たされてゐるのは百合の花瓶ですわたしではなく花瓶なのです

  ししやもには〈わたくし〉はなくししやもには形而上的卵がありぬ

  もう枯れてしまへばいいのにひまはりはわたしのやうに九月を生きる

 作中には複雑な家庭環境に育ったことをそれとなく示唆する部分が多い。しかし自らの人生そのものを描こうとしているわけではないように思える。少し特殊な生い立ちや自らの日常を題材としてはいるが、根本的に問いかけようとしているのは自我の問題であり、自我と自らの身体の関係の問題である。

  ふと触れし君の指先冷えびえとプラネタリウムの椅子を倒せり

  いい人でありたい君の帰り道優柔不断はふつふつたぎれ

  錆くさき血族よりもあかねさす赤の他人のあなたはやさしい

  本当のわたしをあなたに映し見るジオラマジオラマしまうまのしま

  「このへんでねえキスしよう、目を開けて。わたしはことばでできてないから」

  カーラジオ消して言葉も交はさずに木よりしづかにあなたとふたり
  こひびとは文字にわたしを慰めるけもののやうに舐めてもくれず

  君のこゑちひさくてそして早口で電話の先は雨を生む谷
  生きがひと君に呼ばれて生きがひは笑筋くいいと上げてほほゑむ

 こうした相聞歌にも特徴がある。若々しいといえばそう見えるし、円熟した大人の恋だと言われればそう見える。不思議な歌である。「わたしはことばでできてないから」という名台詞に象徴されるように、恋愛に対してかなりリアルな身体性を求めているところが目につくが、それが逆に作者自身の身体意識の薄さを透かせているように思えてしまう。自分の身体が本当に自分のものと思えない。それは、「血族」の枷によるところが大きいのかもしれない。「血族」の物語が、自我と身体を引き裂き続けてきたのだろうか。

  水よりも濃き血をうとみさびしみぬ〈里親募集〉のポスターの前

  くわくこうは托卵を終へ飛び立ちぬ ひよひよ啼くのは三歳のわれ

  母の意に染まぬ婚姻解消しいい子いい子にもどる夕焼け

  月照権、月照権とつぶやき来て新宿路地裏花園あたり

  鳴き声もあげぬしづかな晩年の蝉を掌にのせもいちど鳴かせむ

  きつね、鶴また雪をんな異類婚君を捨てねば〈わたし〉になれぬ

 米川千嘉子の解説によると、わけあって伯母が母として育ててくれたというのが作者の生い立ちらしい。さらに離婚も経験し、自分自身も業のような「血族」の物語を担う一人になったという感覚を抱えているようだ。血に引き裂かれ続ける〈私〉の姿が、タイトルにもなっている「蝉」のメタファーへとつながっていく。長い時間を土の中で過ごす「蝉」の生き方は、自分が生まれる前の出来事で人生が決まってしまった〈私〉に重なっているのであろう。