花山周子は1980年生まれ。武蔵野美術大学卒業。1999年に「塔」に入会。2007年に第1歌集「屋上の人屋上の鳥」を出し、第16回ながらみ書房出版賞を受賞した。母は「塔」選者の花山多佳子である。
「屋上の人屋上の鳥」という歌集の大きな特徴は収録歌数の多さである。860首というかなり異例の多さだ。これだけの数の歌をいっきに読むとなんとも酩酊するような不思議な感覚に陥ってくる。この不思議な感覚というのが花山の短歌の命である。どこか違和感や引っかかりのある歌を大量に読むことで積み重なっていく歪みが、大きな魅力となっている。
「歪み」のもっとも端的な例は破調だろう。特に字足らずの破調が多い。
笛の音の「後ろの正面」流れおり 我はヌードモデルを描きおり
心臓の鼓動に揺れる子うさぎが野球場に一匹いたり
アトリエまでついてきた猫はわれの絵とともに眠る春明けるまで
深夜二時雲ばかりが走りゆく公団団地をわれは制覇す
「足を洗う」と吐く人のいて美術大学は隔離されゆく
友達は私のいないときの私の自画像を怖いと言うなり
鷲鼻の人が淡き顔となるレーナル家白き門前の景
アリバイ「確かに、黒と白がいました。」四角の窓に
字足らずは難しいレトリックであるが、これらの歌は微妙なバランスでぐらぐらしているような感覚が字足らずによって表現されている。そしてそのぐらつきこそが青春期の本質であると捉えている節がある。学生時代のエピソードなども多数盛り込まれているが、きらきらした青春ものとは少し位相が異なる。常に迷い、倒れそうになっている日常がこのあやういリズムに象徴されているのだろう。
休暇のたびにわが認識のうちで「友」は「油絵科」に「油絵科」は「美大」に変貌をせり
『現代日本産業講座』の角が頭に当たれば即死するなり
弟を如何に殺すか思案せし日々を思いぬ栗をむきむき
私と弟が言い争うとき母の集中力がアップするらし
正座して「個性を高めるのよ。」とひとしきりうなずく人達に囲まれている
葱の根の干からびたような髪をして永田和宏徘徊をせり
この頃思い出ずるは高校の職業適性検査の結果「運搬業」
スクリーンセーバーに泳ぐ魚が欲しいとぞ父はネットに探しいるなり
木村拓哉は知っている顔に似ていると考えて結局それは木村拓哉なり
蒲団より片手を出して苦しみを表現しておれば母に踏まれつ
もうひとつの特徴は、すっとぼけたユーモアの歌が多いこと。家族を描いた歌に特にその傾向が強い。これらの歌のなんともすっとぼけた印象は、「なり」のような文語の語尾によるところが大きい。花山は元来が口語発想の歌人で、かなり批評的な視点をもって文語を遣っているのだろうと思われる。文語の語尾によるおおげさな物言いを笑いへと転化しているわけだが、その発想の裏には「本格的なもの」「格調高いもの」に対するアンチテーゼがあるようだ。そしてそれは歌人としてだけではなく、画家・美術家としてもそうなのかもしれない。
美術館を巡り巡って落ちゆけるわが内臓は深海にある
秋の日の白き窓辺に重なれるもう一つの窓、歪みけるかな
ぎっしりと団地にみどり童話にもこんなみどりはなかっただろう
青白き一本の指は萎えてゆく冬の日差しを指さしている
少しずつ嫌いに傾きゆく人に手品をわれは見せているなり
目の色の少しおかしい鳩がくる炎昼もろに後退りせり
CDを裏返し見る虹の色、天気よき日の航海に似て
デッサンのモデルとなりて画用紙に十字よりわれの顔は始まる
雨はずっと降っていたけど朝になりこんなに降ったと街を映せり
君が好き 強い陽射しを浴びて立つ夏の樹木のようで好きだよ
われに欠落するもの青いマフラーに巻いて君に会いにゆかむか
花山は自然描写をかなり用い、季節の情景を大切にする歌人である。しかしそこに描かれているのは郊外の風景であり、人工的な自然という印象を強める。タイトルの「屋上の鳥」という言葉からしてその傾向がある。季節に非常に敏感でありながら、自分は本当の季節に囲まれていないのではないかという疑念があり、その思いが世界を歪ませぐらつかせている。絵を描く人ならではのビジュアライズされた表現で描かれる風景は、つねに欠落を抱えている。それは、自分自身の欠落へと跳ね返っていくのだ。単純に読んでも面白い歌人であるが、郊外という視点で捉えるとさらにその世界が面白く見えてくるように思う。