トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその65・中川宏子

 中川宏子は「未来」所属で、岡井隆に師事。2007年に第1歌集「いまあじゆ」を出している。あとがきによると大学ではドイツ文学を学んでいたという。解説の岡井隆は、「一行の中に「私」を含めて架構する(作中主体を、作者から独立させる)ことが、どこまで可能かといふことだつたのだらう。」と記している。この一文にもあらわれているように、「いまあじゆ」にはフィクショナルな空気を湛えた連作が多い。それも、日常の中にそれとなく不思議な世界が入り混じっているという雰囲気である。それが特に顕著にあらわれているのは、「テレスコープ」という連作だろう。

  口紅を化粧室で塗りなほすマック店員みち子二号に遭ふ

  ゆつくりと梨をフォークで刺すしぐさこの微妙さが松下製デス

  秋雨はいちやうを濡らしわたくしのハザードランプが光りつづける

  向かうより苦手な人がやつてくる(SWITCH OFFさ)すつと会釈す

  スーパーのカートを押して同型の主婦ロボットと甘柿を買ふ

 この連作の舞台はロボットがごく当たり前に普及している世界であり、さらに作中主体自身もどうやらロボットらしい。そんな奇妙にねじくれた空想世界のリアルが妙な生活感を伴って描写される。しかしこれを単純にSF短歌という括りで論じることはできないだろう。岡井の解説にも指摘されているように、日本型自然主義私小説への疑い、「私」という存在の重層性、そうした点への意識からなされるものである。SF的ギミックそのものが目的というわけではない。

  ドラマ見て笑つては泣く単調な日々のすきまに挿す体温計

  願ひとはひとつの形をなせるもの 土中より子が救ひだされぬ

  この世には叶はぬことがありまして叶はぬことで増える友だち

  敬語からタメぐちになるタイミング少しずれてる 台風がくる

  日常は負より始まる 掃除にて0(ゼロ)に戻せばほんとに独りだ

  愛はみな錯覚ばかりの人生の申請書に押すハンはみな赤

  またけふも息をしないで生きてゐる(そんな感じの)平和な世界

 これらの歌からは、平穏ゆえに平凡な日常に倦む普通の主婦という自己像が導かれる。しかしロボットを作中主体にしたこともある歌人が、そのまま自己を詠んだとは素直に受け取ることができない。「息をしないで生きてゐる」という表現は、穂村弘のいう「酸欠世界」に直結する。何もかもがすべて用意されていて選択していくだけの世界の息苦しさが、時代の閉塞感につながっていく。「酸欠」感覚は若者だけに与えられているものではない。時代全体の空気なのだ。
 歌集の中に「DMZ」という連作がある。朝鮮半島の38度線にある非武装地帯(DMZ)を観光したときの旅行詠なのだが、中川はそこに「宣伝村」があるらしいという情報を前もって得てから風景を眺めている。カモフラージュのためにつくられた架空の村。それこそSF的な世界かもしれないものが目の前に広がっている。自らの足で赴いた先の旅行ですら、現実と非現実の皮膜にあるものを見ている。「現実」への疑念が中川の作歌姿勢の基本をなすものなのだろう。人間は本当に現実を見ているのだろうか。巨大な何かによって幻を見せられているのではないだろうか。そういった思いが自由に飛翔する空想と親和性をもつのはごく当たり前なことかもしれない。

  信号に立ち止まる人みな生きたからうと思(も)へば不思議なる春

  食べかけのジャムパンこの世に置きしまま小さな駅より翔びたちし兄

  洗面の鏡やさしく歪みゐてわたしをいよよおぼろげにする

  ドーナツの穴の歪める微妙さで食ひ違ひゆく吾子とのメール

  さよならはいまだ言へない祝日の旗をしまふやうな夜が来てゐて

  底のぬけて黒き淵へと落ちぬやう三角吊り輪を掴むゆふぐれ

  わたくしの夕暮れてゆく街にある影といふ名の数多のimages(いまあじゆ) 

 歌集の題にとられた連作「いまあじゆ」では、歌集のハイライトともいえる中川自身の人生の背景にあるものが綴られる。兄の自殺という経験が深く影を落としているのだ。人間は自然な状態では能動的には死にたがらないものだという常識をあえて反転させ、信号に立ち止まるのは能動的に生きたいと思っているからだと思考してみる。それだけの反転で、世界は今まで見たことのない色彩を帯びてくる。身近に能動的な死を選んだ人間がいなければ思いつかない発想かもしれない。この兄の死をきっかけとして、中川の世界の中で生と死は、そして現実と非現実は、相反するものではなくグラデーションしながら隣り合っているものになった。ほんのささいなきっかけで、人間は異世界に足を踏み入れて帰って来れなくなることがある。そんなことをリアルな経験として捉えているからこそ、あえて現実を疑い、詩という手段をもって世界を見つめなおそうとしているのであろう。