トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその53・冨樫由美子

 冨樫由美子は1976年生まれ。秋田大学教育学部卒業。高校時代に作歌を始め、1995年に「短歌人」入会。1998年に「A Mixed Choir」で第46回短歌人新人賞を受賞。2002年に第一歌集「草の栞」を出している。この歌集には16歳から25歳までの作品が収められているという。
 短歌人新人賞受賞作の「A Mixed Choir」は合唱に題材をとった連作である。

  あんパンでいえば餡この確かさでたっぷり響く中声アルト

  投げられしまま指揮棒は彗星となりて白鳥座を目指したり

  艶ふかきバリトンゆえに彼を愛す象牙色なるその声帯を

  いくつもの三角関係(トライアングル)かくしもつ合唱団の銀いろの声

  歌っているのは私ではなく私たち 誰のものでもないハーモニー

  わたしたち とは誰だろうそれぞれのゆたかな闇を頒かちあえずに

  帰り来て髪をほどけばしゃらしゃらと床に降り積む音符のかけら

 小池光の解説によると、冨樫は「短歌人」に入会して永井陽子の選を求めたという。永井もまた音楽関連の作品が多い歌人だけに、共鳴するものがあったのだろう。歌声に対して「餡」や「象牙」の視覚的イメージをもつところが興味深い。「わたしたち」は重要なキーワードだろう。合唱という経験をもつからこそ、個が集団の中に溶けていくこと、そして集団としてまるで個のように集約され完成してゆくことの可能性を信じている。そしてその裏側にある「わかちあえない」ことへの絶望もまた知っている。ほんの少し「わかちあえない」部分があるだけで瓦解してゆく「わたしたち」。ハーモニーとは人間社会そのものなのだ。

  朝顔がからまるメイル・ボックスにおとうと志願の葉書舞い込む

  ああ鳥になりたいなという君のためやさしい色の空でありたい

  さようなら良いお加減でありました湯はくるくると流れて去りぬ

  世界地図ひろげてねがう恋をするならば言葉の通じぬ人と

  飛ぶことが好きだったのにあなたっていう鳥籠は居心地がいい

  われを抱く肩の向こうに薄れゆく虹あることを君は知らない

  小さな「わかちあえなさ」への絶望は、やがて完全なディスコミュニケーションへの希求へとつながってゆく。より大きな断絶を、混じり合うよりも並び合うような関係を、痛々しいくらい必死で求めようとする。それは悲しみや諦めのようにも見えなくはない。しかしむしろ本当は強さなのではないか。「わたしたち」はいつしかほぐれてばらばらになってゆく。その時初めて「わたしたち」が「わたし」の集合体ではなかったことに気付くのだ。初めて、「わたし」を形作ろうともがき始める自分が生まれる。断絶の希求は、「わたし」の構築そのものだったのだ。
 歌集の第2部からは高校教師として働き始めてからの作品である。社会人としての苦味、孤独がそこはかとなく湧き出てきている。

  粉っぽい夢ばかり見るこのごろはチョークの粉を吸い込みすぎて

  いつの日かそこから船出して欲しい「不登」は「埠頭」だと信じたい

  高二生が高二クラスの担任になるまでの七年(恋二つ)

  明け方のわが夢に来てジョバンニが「僕は大へんつらい」と言えり

  わたくしの右半身が夜であり雨であること人に告げない

  ほろびる、としずかに声にだしてみるボディーソープを泡立てながら

  夕焼けにそそのかされてはみだしてくる感情をよくぼうと呼ぶ

  横縞の服着て通る青葉蔭よこしまにしてまだらなるわれ

 必死でもがき続けているような息苦しさが伝わってくるが、その一方で「(恋二つ)」のようなかすかなユーモアを織り交ぜてくるセンスもある。「ほろびる」や「まだら」といった和語のセンスには、その背景にある陰影以上にことばそのものの美しさを真剣にとらえようとする視点があるように思える。「ほろびる」は確かに「ほろびる」音にしか思えない。「ほろびる」と口に出していても、決して破滅願望に囚われているわけではない。「言葉」というものを自分の基礎に据えてゆっくりと自己を見つめ続けようとする姿勢があらわれているのだろう。