トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその52・千葉聡

 千葉聡は1968年生まれ。東京学芸大学教育学部卒業、國學院大學大学院文学研究科博士課程満期退学。「かばん」所属。1998年に、「フライング」で第41回短歌研究新人賞を受賞した。「微熱体」と「そこにある光と傷と忘れもの」という二冊の歌集を出している。
 千葉の短歌は完全口語であり、連作のストーリー性が非常に高い。新人賞受賞作の「フライング」は「僕」や「君」のほかに役者志望の「ケント」、ボクサーの卵「ヒロ」などいった固有名を持つ登場人物が出てくる。このような構成は他の連作にも多く、二人だけの閉じた世界ではなくある程度ひらかれた社会性を持つ世界を志向しているのがわかる。

  レイアップもできない僕を見てリョウは虹の所有者みたいに笑う

  料理人サラの門出を祝うため僕らは「腹が減った」とわめく

  「中学のころまで『金魚すくい』って『金魚救い』と思い込んでた」

  「Y」よりも「T」よりも「个」になるくらい手を振り君を見送る空港

  殺される役でケントが五秒だけ出ている映画をケントと見に行く

  唾を吐く 体の中にまだ白いものがあったと驚きながら

 ただ、こうしたストーリー志向の連作でどうしても生じる問題として、一首だけでは独立しえないストーリーの進行だけのためにある歌を出さざるをえないことがある。『フライング』でいえば「ケント死す 交通事故の現場には溶けたピリオドみたいな今日が」などがそうであろう。後半の修辞を多少練ってはいても、全体の中では独立性を持たない歌であることには変わりがない。これは千葉の短歌に「キャラクター短歌」としての要素が強いことが関係しているのだろう。類型化されたキャラクターは内部よりもその外部に大きな情報を抱えている。読む者はたとえばケントやヒロに自分の身近にいる誰かや、漫画や小説で出会った似たようなキャラクターを代入して連作を読むことができる。そうすることで、読者ひとりひとりにまた違う世界が立ち上がっていくのである。

  夕凪の渚でしりとり「ささ」「さかさ」「さみしさ」なんて笑いとばせよ

  明日消えてゆく詩のように抱き合った非常階段から夏になる

  蛇行せよ詩よ詩のための一行よ 天国はまだ持ち出し自由

  一首より多くの文字の印された切符が導く夕日の街へ

  真夜中の屋上に風「さみしさ」の「さ」と「さ」の距離のままの僕たち

  びしょ濡れの鉛筆で書いた線のよう 寝ころんだまま空を蹴る脚

  言わないでおいた言葉は僕だけの言葉 どこへも行けない言葉

 もうひとつ千葉の特徴として、世界をテキスト化して理解する傾向というのがある。生身の人間たちが持つ抒情が「詩」や「言葉」へと還元されてゆく。この特徴はともすれば、表面的には単なる言葉遊びとみられかねない側面を持つことになる。しかしこうしたいかにも文化系的なアプローチにも魅かれる部分は多い。田中章義などもこうした技法を得意とする。

  エレベーター「閉」は「開」より乱暴に押され、カインはアベルを憎む

  いくつかの夏は過ぎ去り背が伸びたぶんだけ僕はうつむきかげん

  ソフトクリーム溶けたら溶けたままにして町に染みこむ音符になろう

  君であること僕であることさえも笑っちゃうほど朝焼けを見た

  キス未遂 僕らは貨車に乗り込んで真夏が軋みだすのを聴いた

  「ごめんね」が言えない二人 ため息を静止画にしてコンサートへ行く

  君のいない日々 日々何も書かれない手帳 手帳も捨てられない僕

  これからの日々が始まる 駄目だけど全部駄目じゃない占いのように

  僕がつける傷は輝きますように ケースの隅のきれいな画鋲

  七月は漂う 僕から逃げようとする僕の影をまたつかまえて

 そしてこのあたりが、私が深く愛する千葉の珠玉のような抒情部分である。きらきらとした青春歌のパレードだ。第二歌集のタイトルが「そこにある光と傷と忘れもの」であるが、「光」と「傷」は千葉の歌世界においてつねに双子のように隣り合っている。傷つくことにこそ輝きはある。それが千葉短歌のきらきらワールドにどこか陰影を添えている思想なのであろう。