トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその48・正岡豊

 正岡豊は1962年生まれ。奈良県立北大和高校卒業。1979年頃から短歌をはじめ、1985年前後に「短歌人」に入会。1990年に第1歌集「四月の魚」を刊行したままいったん作歌を中止し、しばらく短歌から離れていた。その間は安井浩司という俳人を知ったのをきっかけに、主に俳句に熱中していたようである。しかし2000年前後に歌集の再刊というきわめて珍しい出来事が起こり、「かばん」に参加するなどして再び短歌に舞い戻った。これには複数の要因がある。まずはインターネットの普及による人脈の広範化、そして同世代の荻原裕幸や少し下の世代の枡野浩一が正岡への積極的なリスペクトを表明するようになったことが大きい。埋もれていた歌人が鮮やかに復活した好例となった。
 第1歌集「四月の魚」は2004年の短歌ヴァーサス6号に再録されているものが現在唯一入手可能な形態だろう。ひらがなを多用した透明感のある口語短歌は、とてもスタイリッシュで現代的である。

  夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ

  ぼくの求めたたったひとつを持ってきた冬のウェイトレスに拍手を

  もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ

  ヘッドホンしたままぼくの話から海鳥がとびたつのをみてる

  へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ

  きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある

  きみをとらえて本当ははなしたくなくて夕闇の樹に風はあふれる

  この塩がガラスをのぼってゆくという嘘をあなたは信じてくれた

  きっときみがぼくのまぶたであったのだ 海岸線に降りだす小雨
 一読して気付くのは初句七音の字余りが多いこと。これは塚本邦雄も同様であり、正岡が前衛短歌から深い影響を受けていることのあらわれである。「へたなピアノ」や「もえさかる舟」のイメージは寓話的であり、実景以上に喩の世界の豊かさを感じさせてくれる。面白いのは、こういったやわらかな口語作品がある程度の成熟を経てから体得されたものだろうと思われる点だ。ところどころにみられる文語短歌の方が、より習作のような手つきである。

  枝ゆする春の猿(ましら)よ とび色の言の葉がつく樹をしらざるや

  うつしみに水満ちているかなしさに花を欲ること告ぐるべからず

  なにもかもふたたびわれに帰りきて身の割れるまで蝉鳴きていん

  エノラ・ゲイの火の翼、否死の翼夕映えならば誰に触れなん

  ひまわりの咲く高さよりなだれ落ち夜の欲望の果てに眠らな

  この世の外へ光はあふれたることを夢にて告げし夏の白鳥

 寺山修司塚本邦雄が若い歌人のスターであった時代の青春歌というのはこういうものだったのだろうと思う。しかし文語脈の歌にせよ、口語脈の歌にせよ、切なさの核になっているような抒情の質はつねに一貫しているように思える。基本にあるのは喪失感なのだ。この感覚は時代全体が共有していたものなのだと思うが、前衛短歌と連結させてみせたのは正岡が最も早かった部類であろう。それゆえに意図的に情報を欠落させた文体でもって余韻を生み出すような詩情豊かな作風の第一人者とみなされるようになった。枡野浩一が正岡から強い影響を受けながら、あえて情報の欠落による詩情を生み出す手法を排したのは、作風以上に正岡の作歌思想に共鳴を受けたがゆえに後追いの手法ではいけないと感じていたからなのかもしれない。
 もうひとつ正岡の特徴といえるのはアメリカ文学と海外SFからの影響である。おしゃれな翻訳文体を持ち込みながら、短歌という伝統詩の中に仮想世界のリアリティをつくりあげていった。

  宇宙の野戦病院ナイチンゲール きっとあなたもいつかなるのだ

  ユニヴァーサル野球協会のピッチャーになりたいね無得点の今宵は

  かなしみは光ファイバー、突然に降りくるさみだれにおどろくな

  レッドソックス敗けてしまった夜だから走れウサギ! 鐘が鳴り止むまで

  ネル・フィルターひたされている水にわが朝日がつくるP・K・ディック忌

  さよならの変わりに走者一掃の打球の消えてゆきし草地を

  「ぼくはぼくのからだの統治にしくじりしうつろな植民地司令官」

  雨の日にぼくとピアノを乗せ走れ イルカのごとき電気機関車

 野球に託したメタファーやこじゃれた会話体などにアメリカ的なものを強く感じさせる。シド・ヴィシャス、P・K・ディック、ケストラー、フェリックス・ガタリタルコフスキートーマス・マンなど登場する固有名詞も「なるほどね」という感じである。典型的な新人類世代であり、ポストモダン思想がサブカルチャー化していった時代の申し子のような香りがある。おそらくは歌人の多くが気付かないSFなどからの引用が含まれた歌も多いのではなかろうか。正岡の魅力の核ともいえる部分は、喪失の抒情と透明な文体ばかりではない。そういった固有名詞の使い方にみられるように、決してペダンティックにならないファッショナブルな知性という時代を象徴するような性格にもあるのだと思う。