トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその44・加藤英彦

 加藤英彦は1954年生まれ。1972年「創作」に、1976年「氷原」に入会。1988年、同人誌「NOA」創刊に参加。1998年に退会した後、2001年より「Es」同人。2007年、第1歌集「スサノオの泣き虫」で第13回日本歌人クラブ新人賞を受賞。歌集あとがきによると20代後半から歌集刊行を勧められていたが、実際に世に出るまでに20年以上かかったという。そしてこの歌集の収録作品は2000年以降の作品に絞られており、青年期の作品は削っている。この思い切った出版方針はなかなか興味深いものである。あとがきを締める一文「この一冊をもって、ぼくはぼくの四十代に別れを告げようと思う。」にあらわれているように、若さや青春への哀惜というのが「スサノオの泣き虫」のテーマになっている。

  ゆっくりと書架が倒れてくる夢のうらがわで一人が殺される

  怒濤のごとく膨らむ首都の夜をゆがめ奴らが戻ってくるぞ 伏せろ

  追いつめてゆくものの目がむきだしの映像として截りとられゆく

  天王洲アイル空爆六本木ヒルズ誤爆の夢のあとさき

  だれも死なぬ少年たちの物語の嘘、いずこにも犇めくぞ死者が

  たぶんぼくも銃を握るだろう美(は)しき理念や抽象の言葉を脱いで

  戦火はげしさを増す夕刻に煮えたぎるパスタの茹であがりが気になる

  狩るものと狩られるものが入れかわる影絵あそびのようにしずかに

 そして加藤にとっての青春への惜別は、「戦争」というメタファーを伴って現れている。メディアを介して他国の戦争を一瞥しながら、自分の日常のなかにかすかに混じる「戦争」を想起する。しかし、たとえば高島裕や谷岡亜紀が試みたようにフィクショナルな戦争を短歌世界の中に浮かび上がらせようとするのとはやや位相が異なる。加藤が描こうとしている戦争はより日常に近い、リアリティのある風景なのだ。社会への批判や挑発という意図よりも、自分は現代において間違いなく目には見えない戦争の中に生きている。そういう実感を強調しようとしているように思う。

  さまよえるゴールデン街そのうす闇もあわれ惜春のひかりをまとう

  真夜ふいに捲き戻さるるビデオ音たしかに誰かに録画されいき

  どのような世界にゆける黙したるこの水道の蛇口のくらさ

  入れかわる二人のわたしが口漱ぐ朝、歯ブラシがうまく握れぬ

  出会い系サイトひらけばひっそりと真水のごとき少女あらわる

  あたたかき口調がつつむ妻という牝の正しい飼育の仕方

  通勤の車内にひしめく体熱と指先携帯メールのちかちか

  支払いを済ませていない人生の督促状が届いていたり

  消しゴムで消すわたくしをわたくしの影をわたしのなかのわたしを

 そして「戦争」が見えなくなるまで浸透しきった悪夢のような日常風景がこのように描かれている。その舞台はつねに都市であり、すべての人間は薄れていく自我にしがみつきながら怠惰に日々を過ごすしかなくなっていく。「飼育」は加藤短歌のキーワードである。飼い馴らされ、家畜化してゆく人間たち、そして紛れもなくその一人の〈私〉。長すぎる青春のあとを生き続けるということは、誰かに従属し、そして誰かを仮想敵として闘いながら生きていくことでしかないという自嘲にも似た悲しみが世界を覆っている。そして、誰かを飼育しまた誰かに飼育されるという権力関係は、あらゆる場所に遍在している。家庭にも企業にも存在する。そして権力はつねに強者が弱者にふるうものではなく、弱者が強者に振りかざす権力もありうるのだ。権力とは個人が所有するものではなく、人間同士の相互関係の中にある。他者を必要とするという関係性そのものが「飼育」であり、その関係性の向こうに加藤は、個人の溶解を感じ取るのである。

  耳はしずかな管楽器 陽を浴びて草生のひかりの中をうごかず

  これが最後になるかもしれぬ唇づけのすこし伸びしている君の位置

  ふり向かせたくて零した嘘いくつ あげはが薄く笑ってくれる

  汝れの記憶に手をさし入れる真昼間の愛は所有にあらずや否や

  君のつかむシーツの波状がぎしぎしと揺るるたび小(ち)さく刻まれてゆく

  いま何をひるがえさむとして君は指さきに風をあつめていたる

  降りやまぬ雨の夜半をたずね来て濡れたスカートの裾をはらえり

 そして象徴的なのはこういった相聞、とりわけ性愛の歌である。加藤の歌う性愛につねに滲んでいる「これが最後」という終末感。それは青春の終わりであり、人間性の終わりでもある。二人の関係に息づいている「権力」の存在に気づかぬまま求めあっていた日々。自己表現の一環としてふたり愛し合うことが可能だった若さ。そういったものに別れを告げて、蜘蛛の巣のように「権力」が張りめぐらされた日常という戦争のなかに突入していく。これはいわば、「若かりし自分」に対する挽歌であり、辞世の句なのかもしれない。