トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・41

  私の歩みにつれて少しずつ回転してゆく猫のあたまよ
 「短歌研究」2007年8月号から。「私の」の読みは「わたくしの」である。「わたくし」という一人称を穂村が使うようになったのは比較的最近のことで、「手紙魔まみ」よりさらに後のことであろう。「シンジケート」の時点では圧倒的に「俺」が多く、たまに「僕」があるという程度だった。「わたくし」という一人称からは成熟、老成といった趣が感じられるが、どこか茶目っ気もある。
 歩いて行く自分の姿を見て道端の猫がぐるーりと頭を動かしていく。いかにもどこにでもありそうな風景である。初期のきらきらした世界を捨て、こういった小市民的な風景を描こうとしていることは、穂村弘にとって一つの大きな変革であった。
 この歌の最大のポイントといえるのは、「私」自身は猫を見つめていないところにある。視野の端っこにぎりぎりおさまっている程度の状態だ。「ああ、猫が私を見ているな」という程度の感慨しかないままずんずん進んでいる。ほとんど視野におさめていないものを歌っているにも関わらず、最後に「よ」という変な詠嘆語が入る。自分の世界の中においていたってどうでもいいものを詠嘆する。これは穂村が近代短歌を逆照射するようなアプローチを試みているのではないかと思う。斎藤茂吉の歌に頻出するような「けるかも」的詠嘆への挑戦かもしれない。この歌に登場する猫は、世界に一匹の大切な猫などではない。風景を構築するモブのひとかけらだ。掲出歌の主題は実は猫ではなく「私」の方である。切り捨ててもいいような些事を視野の端におさめながら、そうしている自分を客観的に描いている。穂村がこの歌で描きたかったのは、フラット化していく世界の中での「私」という存在の不安定感なのかもしれない。風景を構成しているあらゆるパーツをばらばらに解体し、その中で視野の片隅にあるだけの猫を捉え、「よ」という不自然な詠嘆をしてみせる。そこには、風景への抒情が難しくなっていく世界の中で、むりやりにでも抒情をしなければならないという「私」の切迫感があるように思えるのだ。その切迫感がなかなか他者に理解されないとき、穂村の歌にはじめて孤独の匂いが付きまとってくるのである。