トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその27・小池純代

 小池純代は1955年生まれ。立命館大学卒業。1987年に「未来」に入会し岡井隆に師事するが、現在は無所属。松岡正剛の編集学校で講師をしているらしい。「未来」には紀野恵や松原未知子のようにフェティッシュな言葉遊びを愛好する命脈があるが、小池もその流れを汲む一人であるといえる。作風は流麗な文語体であり、「新古典派歌人に括ることもできるだろう。和語のもつ美しさを十全に引き出している歌である。

  さやうなら煙のやうに日のやうに眠りにおちるやうに消えるよ

  みづうみのみづをみにゆく空いろをそのままうつすみづをみにゆく

  おもひでは芯もつごとし手のなかにかならずのこる人やその芯

  水晶のやうな空にはなにもかもうつりゐるゆゑこの空消えよ

 声に出して読むと、その流麗さがよくわかる。小池の歌を読んでいて気付くのは、「消える」というイメージが多いことである。おそらく小池は自分の身体の実存性に疑問を持っており、いつか身体が消えてなくなってしまうのではないかという思いを抱えて生きているのではないだろうか。そして消え去った後に残るものは「言葉」なのだ。「おもひで」がもつ「芯」というのもきっと「言葉」なのである。小池の言葉へのフェティシズムがどこか神経症的な印象を受けるのは、そういう文学観を持つからではないかと思う。
 2002年刊行の歌集「梅園」では、短歌に限らず都都逸漢詩、回文短歌などさまざまな詩形が混淆する。日本語を徹底的におもちゃ化しようという態度がそこにある。日本語で遊ぶことは〈私〉で遊ぶことであり、自分が人間であることを楽しむことなのだ。

  わたくしといふわたくしをひとりづつたたきおこして生涯終はる

  わたくしがわたくし宛に出す封書ふたたびひらくことのなき河

  するするりするりするすみするすらり陸(ろく)から海へおりてゆく黒

  うつくしう嘘をつくなう 唄ふなう うい奴ぢや さう 裏梅(うらうめ)のやう

  朝な夕なのねむりのけむりにまかれつつゆめのほのほにゆきあひにけり

  ほろんだら思ひだしてねさう言つてふたたびみたびほろぶまほろ

 「わたくし」という存在への懐疑は小池の歌世界すべてを覆っている大問題であるようだ。言葉遊びを愛好するとはいえ、その身体には紛れもなくアララギの血脈が流れているのがわかる特徴である。むしろ、たった一人しかいない〈私〉の不思議を追い求めようとしているがゆえに言語遊戯的な表現を選んだのかもしれない。

  手のなかに鳩をつつみてはなちやるたのしさ春夜投函にゆく

  はんかちのやうなかなしみそのゆゑに端をそろへてたたみゐるかな

  近づくな近づくなその海の辺に狼のやうな浪が来るゆゑ

  三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき

  とけながらなに待ちをらむ雪だるま 人が人待つところに立ちて

  梅を見て梅をわすれてもう一度梅を見るまでわすれてをりぬ
 そして小池の歌に特徴的なのが、抒情の質が決してウェットではないことである。かなしみを歌っていてもどこか乾いている。小池の「言葉遊び」については実は「笑い」がかなり重要な意味を占めている。「三匹の子豚」の歌のような、洒脱でユーモアのある歌が特に印象的である。紀野恵との共通点として、端正な和歌調の歌を作っていながらいかにも日本的な湿った抒情には与しないという態度を見せているところがある。「はんかちのやうなかなしみ」とは、「もののあはれ」的感覚を否定したところからはじまるかなしみである。〈私〉がこの社会において存在しなければならないかなしみ。それは決して安直な自然詠などでは表現できない、「はんかち」という外来語を使用して(しかもわざわざひらがな表記で)でもないと伝えることのできない類の、とても現代的な悲哀の感覚なのであろう。