トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその25・松平修文

 松平修文は1945年生まれ。東京藝術大学卒業で本業は日本画家だという。1968年より大野誠夫に師事し、「作風」同人。1984年に退会して以降は無所属である。師の大野誠夫は自己演出性とドラマ性の高いロマネスク的作風で、戦後短歌史でも一際異彩を放つ存在である。松平はそんな大野にかなり心酔していたらしい。

  あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ

  きみを思はぬ日はなく松の花にふる雨に濡れむと岡にのぼるも

  自転車を草にうづめて漕ぎ出でしあかとききみは舟にねむりぬ

  なみにぬれしスカートのすそをしぼるとき沖あひで海猫なきさわぐ
 いずれも第一歌集「水村」(1979)から。これらの歌を目にしたとき、そのすぐれた抒情性に胸を打たれる。ロマンチックで切ない歌たちである。さすがに画家だけあって、風景を切り取るセンスが並外れている…と思えるが、実のところこれらの歌に松平の本領があるわけではない。確かに切ない抒情歌も松平の短歌の魅力のひとつだが、松平にしか詠めないであろうセンスがあふれているのは次のような歌である。

  植物園よりも花多き墓場ではひねもす小動物たち殺しあふ

  少女らに雨の水門閉ざされてかさ増すみづに菖蒲(あやめ)溺るる

  洪水の都市の眺めのすばらしさをつたへて受話器よりわらふこゑ

  床下に水たくはへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる

  黒きバス森に着き窓をいつせいに開けて夥しき鴉を放つ

  池のほとりの美術館は雨の夜に開き水鳥と魚の絵ばかり飾る

  眼のない鳥や眼のない魚や眼のない少女が棲むその街は、夜だけの街
 暗黒の美学といっていいだろう。夜と悪意を愛し、奇怪趣味とグロテスク趣味に耽溺する。しかし決して拭い去れない美しさがある。こういった作品の方がむしろ日本画家らしいという気がしてならない。日本画が纏っている独特の冷たい美しさ。松平の描くオカルト的な世界は、それと同質の冷たい美しさを持っているように思えるのだ。松平の短歌に通底するテーマは「闇」である。闇の中で見る風景の怖さと美しさを伝えようとしている歌なのだといえる。

  夕菅の花咲き残るこの路ですれ違ふだけでいい 何も言はなくていい

  遠ざかつた風景だが、桜咲く坂道を君は君のモデルと二人手を振りながら下りて来たよね

  街灯が暗すぎるよね いつまでも佇つてゐてまた「さやうなら」と言ふ

  きみが此処にゐた日のやうにベランダで雨を見ながら食事をしよう

  貯水池を覗きこむのは僕と僕の犬と向日葵の花と夕雲

  涙ぐむきみをいまごろ思ひ出し、群青の雪降りつづきをり

 2007年に発行された第四歌集「蓬(ノヤ)」には、これらのようなセンチメンタリズムと暗黒趣味が融合されたような歌が散見される。口語表現が増え、二首目のように自由律的なリズムの歌があらわれはじめたのも注目させられる。「闇」というこれまでのテーマに加えて「不在」が大きなテーマとなったように思える。父への挽歌が含まれていることもそういう印象を濃くする。「もういない」誰かを思い続け、語りかけ続ける悲しさ。それが「闇」のイメージと混じり合うことで複雑な色味を醸し出している。また五首目のような、ノスタルジックに思えるもののどこかホラー的な匂いを消し去れない歌にも魅かれるものがある。少年期の「僕」が犬と向日葵と夕雲とともに覗き込んだ貯水池。その中にあるのは、人間が見てはならないもののように思えてならない。同様に、消えてしまった人間の幻影もまた見てはならないものなのかもしれない。闇の中に幻を見続けて立ち尽くす〈私〉。これほどまでに切ない「暗黒」の風景を私は知らない。