トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその17・笹井宏之

 笹井宏之は1982年生まれ。2004年にインターネット上で作歌をはじめ、2005年に「数えてゆけば会えます」で第4回歌葉新人賞を受賞。2007年に「未来」に入会し加藤治郎に師事している。第1歌集「ひとさらい」は2008年の1月に発行された。
 未来短歌会の加藤治郎選歌欄「彗星集」が発行した「新彗星」第2号には穂村弘加藤治郎による「ひとさらい」をめぐる鼎談が掲載されている。その中で穂村は笹井の歌を評して「OSの変化」という言葉を用いている。要するにそれまでの写実短歌の流れとは全く違う流れにある短歌だという意味であろう。笹井が事実上ネット短歌発のスター歌人第1号であるということがあるいは念頭にあるのかもしれない。実際のところはむしろニューウェーブ短歌からの影響が非常に大きい作風なのだが、その圧倒的な詩的個性といった点で群を抜いていることは確かである。

  水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って

  一生に一度ひらくという窓のむこう あなたは靴をそろえる

  思い出せるかぎりのことを思い出しただ一度だけ日傘をたたむ

  ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

 非常に詩的純度の高い歌である。笹井の歌には生活感がまるでなく、ただ真っ白な幻想世界が広がっている。それはあまりに純白すぎるがゆえに、ときに死のイメージすら帯びることがある。ピュアーでイノセントな歌というのは決して珍しいものではない。正岡豊という先人がいるし、吉川宏志の初期作品にも同質の透明感があふれている。しかし笹井の歌は、個人の生活というものからまるっきり遊離しているという点に特徴がある。そのため、彼の歌はノスタルジーやシンパシーから程遠いファンタジックなものになっている。匿名で提出されても作者がわかってしまうくらいの著しい個性である。
 しかし、幻想性を志向していながらも、魔法や妖精のようなファンタジックなモチーフを直接登場させることはほとんどない。出てくるのはむしろ生活感のあるありふれたモチーフばかりである。
  春の子は恋もシアン化カリウムの漏えい措置もたぶん知らない

  集めてはしかたないねとつぶやいて燃やす林間学校だより
  レシートの端っこかじる音だけでオーケストラを作る計画
  「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほう何年だったか思い出せそう?」
  みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム
 これらの歌はポエジーとともに新鮮な驚きをも与えてくれる。使われているテクニックはいたって基礎的な二物衝突である。身近な言葉を用いて、組み合わせの妙味で魅せている。「こんでんえいねんしざいほう」にしても「再結成されたバンドのドラム」にしても、言葉の斡旋がとても意外であり面白い。それは言ってみれば、いかに変てこな言葉同士の組み合わせを考えるかという言語遊戯にも近い。これらの歌の中には基本的に作者自身の自己像は登場しない。作中主体らしき人物はいても、それは誰とでも代替可能な「Nobody」である。不条理の世界の中で〈私〉が消失してゆく世界観は、ある種のシュールレアリズムにも似ている。

  音速はたいへんでしょう 音速でわざわざありがとう、断末魔
  ひまわりの顔がくずれてゆく町で知らないひとにバトンをわたす
  「ねえ、気づいたら暗喩ばかりの中庭でなわとびをとびつづけているの」
 そんな笹井の歌からみられるかすかな〈私〉のかけらはこのような歌に散りばめられているように思う。「断末魔」「ひまわりの顔がくずれてゆく町」は作者のどうしようもない孤独と悪意がわずかに覗いている表現である。心の中の不安と恐怖をうまく伝えることができず、形而上の言葉でもって表現していかねばならない苦しみが表れているように感じるのだ。3首目は「ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで」(加藤治郎)と「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの円駈けぬけられぬ」(塚本邦雄)のハイブリッドのような歌だが、「暗喩ばかりの中庭」とはすなわち笹井自身の詩的世界であり、「なわとびをとびつづけている」のは笹井自身であろう。自らの叫びすらも暗喩化されてゆく詩人の孤独。そして、孤独に苦しむ姿すらもときに美しいのが詩人なのである。