トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・14

  編んだ服着せられた犬に祝福を 雪の聖夜を転がるふたり

 第1歌集「シンジケート」から。もうクリスマスも明けたところであえてこの歌を。この歌は1986年の角川短歌賞次席作品「シンジケート」からあるのだが、初出では「編んだ服着せられた犬に祝福を雪の聖夜をふたりで転ぶ」であった。「ふたりで転ぶ」が「転がるふたり」となったことでかなりイメージが変わってくる。また初出の時点では一字空けがないのも注目すべき点である。
 上句の「編んだ服着せられた犬」というのは人間のエゴの象徴である。実際のところ室内飼いの小型犬は、もこもこの毛皮を着ているように見えても寒さには弱いので服を着せることを批判されるいわれはないのだが、少なくともこの歌が詠まれた80年代においては「動物に服を着せるなんて…」という見方が主流であっただろう。犬に服(それも編んだ服)を着せることは人間の自己顕示欲や過剰な自意識といったものの表れとみられていた。しかし穂村はそんな人間のエゴをあえて「祝福」する。それはバブルを迎えようとしている時代の反映であったのかもしれない。

  汚名また美しきかな江青はいかなるひびきの河にありしや  水原紫苑

 穂村は「もうおうちへかえりましょう」所収の「言葉の金利」のなかで時代の高金利の追い風を受けた歌の一つとしてこの歌を挙げている。シュアな文語短歌のように見えるが、汚名もまた美しいと言い放つ言葉の背後にはやはり時代の空気感があったとしている。掲出歌もまた、人間のエゴを「祝福」という語でもって全肯定してみせることで、あらゆる欲望が正当化される消費社会の絶頂期を切り取ってみせているのだ。「雪の聖夜を転がるふたり」というフレーズは即物的な性愛のイメージももちろんかぶせてあるが、社会性を放棄してふたりだけの世界に埋没するという行為が消費社会のもとでは反倫理的なものでなくなることへの喜びもまた表現されているのかもしれない。