トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・13

  海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか

 第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。この歌を読んで思い出す歌がある人は少なくないだろう。

  貴族らは夕日を 火夫はひるがほを 少女はひとで恋へり。海にて  塚本邦雄

 塚本のこの歌は貴族と夕日、火夫とひるがほ、少女とひとでといった二物対立が肝になっている。そしてすべての対立が句点の後に配された「海にて」によっていっきにまとめられる。穂村の掲出歌も近い部分があり、最後の「蛸ほか」という倒置でもってすべての「海の生き物」が「たとえば、蛸」というかたちで象徴化されるという働きがある。塚本の歌の場合三つ目に出てくる「少女とひとで」という組み合わせがもっとも重要であり、貴族と火夫は引き立て役にすぎない。ひとでを海にて恋うちょっとエキセントリックな少女の姿に美があるのだ。
 ひとでもまた蛸に負けないくらい考えていることがわからない海の生き物であるが、形状が星に似ているということが寓意性をもつのだろう。空の星を恋うことができずに海のひとでを恋う少女には、少し歪んだ美しさがある。
  「考えてることがわかんない」と言い切っているが、作中主体である「まみ」自身かなり考えていることがよくわからないタイプであるし、同時に他人の考えていることを見抜けないタイプでもあるのだろう。「海の生き物は〜」と言いつつ、陸上の人間もいまいち考えていることがよくわからないのだ。それはすなわち生きづらさに直結し、孤独を浮き彫りにする。「ひとでを恋う少女」と「蛸を怪しむ少女」の間を隔てているものは、海との距離である。海は幻想の象徴であり、都市から遠く隔たったものだ。海でひとでを恋う少女は幻想の世界の中を生き続け、都会に生きる「まみ」は冷たい現実の前にはかなく崩れ続けている。「考えてることがわかんない」リアルの人間たちとの軋轢を、もっと考えていることがわからない海の生き物たちと比較することで精神を保っているのかもしれない。その象徴が「蛸」という軟体動物であることは示唆的である。自分自身の精神がぐにゃぐにゃになってしまっているのだ。

  夜明け前 誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている

 掲出歌と同じ一連の歌である。「まみ」の心象風景としての海は、ここまで幻想性を奪われて荒涼たる風景として広がっている。おそらく「まみ」はこの風景を恋うことはないのであろう。