トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・10

  こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる

 第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。この歌集は一冊全体でコンセプトを持ったものであるが、掲出歌などはその中でも連作性を超えて際立った絶唱といっていいものだろう。歌集のクライマックスといえる一連「手紙魔まみ、みみずばれ」の一首目に置かれている。
 ふたりで空を見上げるという行為には、ふたりが生きている社会を超越した世界への憧れといった思いを感じさせる。それは尊いほどに静謐で、同時に悲痛なものでもある。歌集の語り手である「まみ」は、手紙を書き続けながら幻想の世界に生きる自分とウェイトレスとして生計をたてるリアルの自分との間のゆらぎに引き裂かれながら生きている。それゆえに、ちっぽけな「自分」から解放された世界へ行くことへの希望が「空を見上げる」という行為として結実するのだ。

  こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう? こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう、嫌

  (あなたはまみにどんな酷いことしてもいい)睫毛と息と空が凍って
 「手紙魔まみ、みみずばれ」一連の前半部を覆う「嫌悪」と、後半に従って色を濃くしてゆく「肯定」。そのギャップがよく表れている二首であるが、「肯定」は徹底的に悲痛であることがわかる。痛みをすべて抱えてもなお自分自身と世界とを肯定しなくてはならないという思いこそが、実は「おいのり」なのだ。しかしその本質に根ざしているのは「嫌悪」であり、世界を生きてゆくことの孤独感が浮き彫りにされる。
 「まみ」が呼びかける「ほむほむ」(=作者であり、手紙を送っている相手である穂村弘)と「あなた」はおそらく別人である。「ほむほむ」は幻想世界の住人であり、「あなた」は現実世界の住人である。現実を生きることの痛みを引き受けて「あなた」とふたりで空を見上げてゆく。「嫌悪」を覚えながらも世界を切り分けることを決意したとき、生きることは「おいのり」と一緒になるのである。