トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

「風通し」を読んでみる。

 「風通し」が届いた。斉藤斎藤が発行人をつとめる同人誌である。9人の歌人が30首の連作を発表し、ネットの掲示板を使って批評と討論を交わし合うというものである。いずれも明晰な理論を持つ歌人たちであり、とても内容の濃い討論が繰り広げられていた。歌会で鋭い批評に出会うと脳みそに電気が走るような感覚を覚えるが、それと同じ感覚が紙面を通じて何度も来たものである。特に鋭いと思った批評をメモがわりに書いておく。

我妻俊樹「案山子!」
  忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
  「泳げないから慎重にふんだのに横断歩道が氷だったの」
宇都宮敦:一カ所、ふつうここは順接的に言葉をつなげるよなってところをもう一回曲げるので、意味的にだけでなく、ひとつのイメージに収斂していくことさえ拒む。(中略)難解さってその背後に高尚さがある場合が多いんだけど、我妻さんの歌には難解でありながら「高尚さ」への嫌悪みたいのを全体的に感じます。

石川美南「大熊猫夜間歩行」  

  倍速でご覧下さい(かなしみは)コロナビールのレモンの落下
  ナイーブな結論を出しその後はふたりころころ寝転がるのみ
我妻俊樹:主体をリンリン(あるいはリンリンを目撃している人間)としても読めるけど、普通に(?)人間の歌、現実にありうることやありうる空想(リンリンの物語を必要としない)が歌われている歌として読める位置がほぼキープされていますよね。その禁欲的な二重性のようなものが一連の豊かな膨らみになっていると思いました。

宇都宮敦「昨晩、君は夜釣りへいった」
  ケータイのストラップには電話よりでかい君からもらった疑似餌
  まちがった明るさのなか 冬 君が君の笑顔を恥じないように
石川美南:連作のほかの歌から察するに、「わたし」は釣りをしない人。「君」からもらった疑似餌を本来の用途で使うことはありません。それでも、「君」からもらったものだから、携帯電話にぶらさげて、大切に持ち歩いている。そこには、「自分もまた(疑似餌にだまされて)釣られているのではないか」というアイロニーも多少は込められているのかもしれませんが、基本線のところでは、「わたし」はそんな二人の微妙な関係性を、肯定的に捉えているのだと思います。

斉藤斎藤人体の不思議展(Ver.4.1)」

  順路沿いに歩けば起承転結の転のあたりに新生児輪切り
  死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり

西之原一貴:身体がただの無味乾燥な見世物と化してしまうまでのプロセスというものに作者は問題意識を持ち、そして自分自身もそのような状況に巻き込まれている存在(「ぬるい水」)であるということに怒りを増幅させているのではないかと思います。(中略)意味を奪われた身体というものに作品の主題がある。

笹井宏之「ななしがはら遊民」

  生きようと考えなおす さわがにが沢を渡ってゆくのがみえて

  甲羅からピアノの音がきこえます 亀だとおもいます ショパンです

永井祐:なぜ「ショパンです」が言葉から世界の自立した瞬間なのか。それは「亀」を言うときには「思います」をつけて、おそるおそるだった笹井さんが、「ショパン」のときは「ショパンです」とはっきり言い切っているからです。この亀からショパンへの語調の変化に一つの奇跡を見たいというのがわたしの読みです。

棚木恒寿「秋の深度」
  求められて書けば嬉しき脚本の涙の部分すこし動かす
  それぞれが慣れぬ若さをすこしずつ演ずる頃を青春と呼ぶ

石川美南:「求められて書けば嬉しき脚本」は、文化祭用の脚本を生徒に頼まれているということですよね。上の句は、若い生徒たちの劇に(若くはない)自分が参加できることを、わりと素直に喜んでいるのではないでしょうか。一方、「涙の部分すこし動かす」はシニカルです。語り手は、脚本の泣かせどころを緻密に計算し、最も効果的な位置にぴたりとはまるまで、推敲を重ねている。この、一歩引いたところから物事を眺める冷静さは、本物の青春の中にある生徒たちには持ち得ないものだ。と、語り手は思っている節があります。

永井祐「ぼくの人生はおもしろい」

  月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね

  ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見

宇都宮敦:「ぼくの人生はつまらない」じゃないとしたら「ぼくの人生はおもしろい」の逆はなんなのか。僕は「きみの人生はつまらない」なのだと思う。ぼくの人生を「きみの人生はつまらない」といってつまらなくしようとするものに「負けねえよ」というための「ぼくの人生はおもしろい」なのではと思うのです。(中略)いっけんつまらないことをコンクリやアスファルトを撮りためていくようにこれこそがおもしろいんだよと集めていくことで「負けねえよ」という。

西之原一貴「夏の嵩」
  海を見ぬ日々が私を造りゆく缶のキリンを凹ませながら

  見つからぬエリーの名など繰りかへすやうな月日が僕を育てた

斉藤斎藤:「夏の嵩」の作中主体は、自らの<今ここ>に一首を通して徹しきることができない、過去や第三者のフィルターを通してしか、今にさわれない体質なんですね。(中略)乱反射する時のひかりのなかで、ダサかったわたしがダサいまんまで輝いていて、この輝きのうらがわには、直接的に現前する<今ここ>の断念があるのではないか、という気がするんです。

野口あや子「学籍番号は20109BRU」

  野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり

  この手摺りの先に行きたし上出来な歌ひとつルーズリーフに記し

宇都宮敦:キャラクターが、というよりもキャラクターからはみだした「私」がおもしろい、技巧と気合いの二者択一で気合いを選んだというよりも技巧を選んでいるのに気合いがはみだす、といったほうが僕の感覚に近いです。(中略)でも、全部が全部でないけど、そのうまい歌のなかに、そのうまさによって、「私」が類型化=キャラクター化しちゃっている、「私」が「野口あや子。あだ名「極道」」でなく、いわゆる「生きづらい若い女性」一般にみえてしまう歌がある。


 実作面では石川美南と斉藤斎藤の実験性が目を引いた。批評面で輝いていたのはなんといっても宇都宮敦。とてつもなく明晰。永井祐の解釈にはひとつの決定打を与え得たかもしれない。「風通し」は毎号メンバーが変わるので次回は宇都宮敦の批評を読むことができなくなるのが残念である。これからの短歌界の理論的支柱の一人となっていくことを期待したい。