トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその10・大塚陽子

 大塚陽子は1930年生まれで、2007年に没している。樺太生まれで、豊原高等女学校卒業。1952年に「新墾」「潮音」に入会。のちに「辛夷」に移籍し、編集人を務めた。野原水嶺に師事。その名が歌壇に現れたのは1954年の第1回短歌研究新人賞五十首詠のときであり、中城ふみ子と激しく受賞を競ったという。そのようにデビューは早いものの、歌集を出したのは遅く第一歌集「遠花火」で第7回現代短歌女流賞を受賞したのは1983年のことである。
 中城ふみ子といえば情熱的な「恋多き歌人」として知られており、激烈な人生の果てに夭折した歌人である。大塚はふみ子と同じ北海道に暮らし、同じ歌誌に所属し、同時にデビューした。華々しく燃え尽きるような人生を送ったふみ子を太陽とするならば、その陰に隠れていた大塚はまるで月であった。愛する人に照らされ続け、情念の輝きをひっそりと抱き続ける「恋する人生」を送っていたのである。

  七月生れわれはひまはり陽を追ひて陽に向きて七月のわれはひまはり

  人の夫奪ひし重さはげしさにあはれ漂泊の思ひはやまず
  いづれ一人残さるるわれ白鳥をふたり見て佇つ今がまぼろし

 一首目の向日葵の歌は、大塚の代表歌であり、絶唱である。明るい色をまといすっくと立つ向日葵。しかし、その姿はいつも陽を追い続けるものでしかなかった。己の輝きはいつも愛する者の光に照らされているがゆえのこと。そういう意識が常に大塚にはあった。
 大塚が背負っていた十字架は二首目にストレートに語られている。家族を持っていた師・水嶺との師弟関係を越えた果ての略奪婚。そのことへの自責の念が大塚を一生支配していた。そして自分よりはるかに年上の男性を愛したことは、三首目のような「いずれは一人残される自分」の孤独が裏側に張り付いていた。

  逢ひたけれ われにひとりの人ありて咲きいづる夕すげの花の夕べは

  男ひとりの終着なりしことをわが唯一としてほかはのぞまず

  つば広き帽子に初夏の旅に出む寡婦控除にて税金もどる

  逢ふ前の私に戻ればそれで済むたかだかのことこれしきのこと

  終生を産まず育てずただ恋ひてただの女でありて悔なし

  わが死出の衣は深紅 一生を恋ひて焦れて生きましたから
 かつて感じた孤独への懸念は、やがて現実となる。夫・水嶺の死後に出された第二歌集「酔芙蓉」には、死別による絶望から立ち直ってゆくまでのさまが描かれている。寡婦控除による税金払戻に、悲しみから立ち上がってしたたかに生きていく覚悟が象徴されているユーモアが痛快である。「一生を恋ひて焦れて生きましたから」はまさに大塚の燃えるような一生を象徴する言葉であろう。子供を産むこともなく、ただひたすら一人の人間に恋い焦がれ続ける女性として生涯を全うした。ふみ子のような刹那的な生き方ではない。しかし、紛れもなく恋に燃え続けた一人の女の姿が、大塚の歌からは浮かんでくるのである。