トナカイ語研究日誌

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はたらく人々

 昭和のはじめ頃に「プロレタリア短歌集」という本が出まして、厳しい生活を生きる労働者の姿が刻まれているわけです。しかし不思議なことに読んでいてあまり沈痛な気分にはならないんですね。

  あぶれた仲間が今日もうづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら   坪野哲久
 軽口のような口語自由律、そして「仲間」という連帯意識。そこには厳しい社会を生き抜いていこうとするたくましさのようなものをも感じるのです。「働く」ことに関する歌は、それこそ近代から現代に至るまで絶え間なく詠み続けられています。 
  こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ  石川啄木  
  会社での俺が俺ではないならば一生(ひとよ)の大半俺でない俺  長尾幹也
 明治の歌人と平成の歌人を並べてみましたが、「労働」に対する見方というのは昔から変わらないわけです。いつの世も仕事というのは自分自身そのものなわけです。そういう観念を引き受けて生活していくのがまあ大人になることのように見られたりもするわけです。諦念の先の明るさに思えますが、やはり何かから目を背けている苦みをも感じざるを得ません。そして現代の若い世代が労働を歌うとどうなってしまうのかというと、こんな風になってしまうわけです。
  時給一一六〇円が時給七八〇円に「肉まんひとつ」   斉藤斎藤
  通勤のロングシートに六人の他他他他他人と一人の私   松村正直  
  どう たのしい OLは 伊藤園の自販機にスパイラル状の夜  永井祐
  社員用休憩室の昼下がり母たちと娘たち棲み分ける  岸野亜紗子
  放課後に見た夕焼けはこんなんじゃなかった気がする残業の窓  柳澤真実
 読めばなんとなくわかりますね。とにかく人と人とが「途切れて」います。本当はアイデンティティとして仕事を生活の中心に据えることも悪くはないと思っているんですね。しかし働く自分の姿はあまりに孤独だ。坪野哲久のように「あぶれた仲間」はいない。時給一一六〇円と時給七八〇円の二人も、通勤のロングシートの六人も、OLとして働き始めた彼女も、休憩室の母たちと娘たちも、みんなどうしようもなく他者なんです。決して連帯し得ないんです。一体いつからこうなってしまったのかわからないまま、昔とは違う夕焼けを残業の窓から見つめ続ける。この他者との「ばらばら感」は社会全体が時間をかけて植え付けてきたものなのでしょう。そうなる方が都合が良くなる人間というのも確かにいるのです。このように労働する人間が「極個人的」にデバイドされてゆく現状は、かつてのプロレタリア短歌と違い口語が逆に痛ましさを増幅させているような気さえするのです。
 ちなみに、上二首は30代、下三首は20代の歌です。30代の二人はあえて不安定なフリーター生活を選んでいるという側面がありますが、20代の三人はそもそも選択の余地なんてない時代を生きています。そこにもすでに多少の温度差があります。 
 このように「はたらく」歌は突き詰めていくととても深いものがあります。出版社ふらんす堂のページでhttp://furansudo.com/加藤治郎さんが「家族のうた」と題して毎日家族にまつわる歌の一首評をしているわけですが、僕がやるとしたら「はたらくうた」で挑戦してみたいところですね。もちろん1日目は石川啄木で。