トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその13・高島裕

 高島裕は1967年生まれ。立命館大学文学部哲学科卒業。1996年に「未来」に入会し岡井隆に師事。1998年、「首都赤変」で第41回短歌研究新人賞候補。2000年、第1歌集「旧制度(アンシャン・レジーム)」で第8回ながらみ書房出版賞を受賞。2002年に「未来」を退会してからは、故郷の富山に帰り個人誌「文机」にて活動しているほか、同人誌「[sai]」にも参加している。これまでに「旧制度」「嬬問ひ」「雨を聴く」「薄明薄暮集」の4冊の歌集がある。
 「首都赤変」は軍事テロの起こった架空の東京を舞台にした連作であり、短歌にSF的発想を持ち込んだ意欲作である。単なる幻想ではなく、混沌の中で現実と幻想が一瞬交差する瞬間を捉えた歌に才能がきらめく。

  疾風のごと集ひ来て若きらはジープを奪ふ 髪は黒旗

  銃声の繁くなりゆくパルコ前間諜ひとり撃たれて死にき

  兵ら互(かたみ)に嗤ひ合ひつつ黒黒と大蔵省の壁にFuck!と
 「パルコ」や「大蔵省」といった言葉に現実と幻想との橋渡しがある。このようなディテールによってヴァーチャル・リアリティは一層補強される。高島がこのような破壊幻想をもつようになった背景には、学生時代に反共・反天皇制運動に携わっていたという思想的遍歴と、職を転々としたのちに清掃業という肉体労働に従事するようになった社会的遍歴とがある。「自分が正当に扱われてこなかった」というルサンチマンが世界への憎悪と破壊への渇望につながっている。そういった世界への苛立ちは次のような歌にあらわれている。

  弾丸のごとく降るべしNIPPONを蜂の巣にしてくれよ、さみだれ

  変らぬ世界、還らぬ世界、夕街にわれのみや硬く寒く尖れる

  塩のごと雪降る朝を想ひをりほろびののちをほろび疲れて

  見はるかす海は冬日に凪ぎわたる死ぬことと生まれなかつたことと
  閉ざしゆく空くれなゐに塗り籠めて少年の瞳(め)は永遠(とは)の真夏日

 自分が変えることのできなかった、あるいは自分を変えてくれなかった世界の破滅を願う心。それが自分自身の存在意義の問いかけにもつながってくる。いずれも暗く熱い情念の歌であるが、世界を自らの手で壊そうという意志はもはやない。「革命」はすでにヴァーチャルの中にしかないことを知ってしまったことへの屈折が、破滅願望となってあらわれている。第1歌集の出版が1999年であったことも偶然ではない。5首目は「新世紀エヴァンゲリオン」に題をとった一連の中の歌であるが、高島がもつ終末への待望はサブカルチャーの世界とも少なからずの親和性があるようだ。
 その一方で、高島がそれでも信じ続けてやまないものがある。少女と相聞である。憎悪すべき世界を超越した存在としての少女讃歌と、端正な文語定型による美しい相聞のしらべは目を瞠るものがある。

  少女といふ神を拝(をろが)むわが内の「十七歳」を揉み消せぬまま

  まなかひに少女(をとめ)はゑまふなだらかな着地へ向かふ約束のなか

  月光のやうなからだを引き寄せるその内側の雨を聴かむと
  匿名の海に紛れて消えぬやうその冷えた掌を離すな、吾妹(わぎも)

  波へだて遠ざかりゆく君のためなほまつすぐに告ぐる愛あり

 自らの中の少年性を殺すことができないまま成長したがゆえに、世界と社会を憎み、少女と愛を信じる。高島の見る幻視は、破壊にせよ美しいエロスにせよ刹那的なものである。しかしそのような刹那的な美意識を共有する人が少なくないのであろうことは、短歌の世界を飛び出てサブカルチャーに目を向ければなんとなく実感できるものである。僕が短歌を知りはじめた頃もっとも熱狂した歌人のひとりに高島がいたことも、おそらくは僕の中にもやはり永遠の少年性が眠っていることの証左であったのだろう。