虚無とジェリー

何もない

生活をともにするというぐらぐらのジェンガ

一緒に暮らしている彼女も働いている。残念ながら僕一人の稼ぎではやっていけない。家賃や光熱費は僕が、食費は彼女が出すことが暗黙の了解のようにいつの間にか決まっている。生活のハード面を僕が、ソフト面を彼女が担当しているのだと勝手に解釈している。彼女の了承は得ていない。

 

けれど、「生活のハード/ソフト」という区分は、はっきりと割り切れるものではない。家具などは明らかにハードだから僕が買った。しかし生活のなかで当然発生するこまごまとした消耗品は、どちらに含まれるか怪しい。トイレットペーパーや洗剤などはスーパーで買うので、食料品と一緒に彼女が支払いをしている。食料品と生活用具とでわざわざ会計を分けるのは面倒だからだ。そういうとき僕は彼女が会計をしている隙間をつき、カゴを運んで買い物袋に詰める準備に入る。それが彼女から仰せつかっている仕事なのだ。支払いをしない罪悪感は、とりあえず体を動かすことで埋めている。

 

しかしたまに事前に千円程度出すように求められることがある。彼女の中で「スーパーにあるけれど、自分が支払う管轄ではないものも今買うよ」という意味だ。でもそれが歯磨き粉だったりゴミ袋だったり毎回バラバラで一貫性がないので、彼女の中での支払い区分がどうなっているのかはよくわからない。

 

食器などは生活のハードっぽい気がするが、3COINSなどで彼女が買ってくる。彼女のセンスに見合うものな必要があるからだろうと勝手に解釈している。僕には、自分ひとりで勝手に解釈していることがやたらと多い。そして彼女を怒らせてしまうのはたいてい、勝手にしていた解釈が間違っていたときだ。明文化されているわけでもないルールが積み重なって成り立っているこの生活は、いつもぐらぐらのジェンガだ。話し合いもないまま、なあなあで積み上がってゆく「生活」というのは、なんだか高層建築みたいだ。

 

そして明日も彼女に「早く本棚を買え」と言われるのだろう。わかっている。それは間違いなくハードだ。

今からGLAYを好きになってもいいものだろうか

一緒に住んで2年くらいになる彼女に、GLAYのリバイバルブームが来ているらしい。10代の頃に好きだったものの「時の雫」あたりから遠ざかっていたそうだ。しかし今になって「BELOVED」とか「SHUTTER SPEEDSのテーマ」とかをヘビーローテーションしている。そしてこの前はブックオフTAKUROの自叙伝である『胸懐』を買ってきていた。2003年の本。ついでなので僕も読んでみた。実はこの本には僕にもちょっとした思い出があるのだ。

 

20代半ばのほぼニートだった頃、読書系のネット掲示板に出入りしていた。課題図書を一冊設定して参加者たちが感想を言い合うのだが、ある時この『胸懐』が課題図書になった。当初は「なんでタレント本なんて読まなきゃならないんだ?」という空気になっていたものの、実際にみんなが読んでみると空気は一変した。「すごい本だ」と絶賛の嵐だった。しかしそのときは僕はまだ『胸懐』は手に取らず、参加者の感想を眺めていただけだった。

 

僕のニート時代はひたすら辛い毎日だった。『胸懐』はその頃の記憶の一部になっているタイトルだったから読んでいて苦いものを胸に感じながら、同時に今だからこそ感じられる興奮も得ることができた。『胸懐』は、本の造りそのものは完全にタレント本のそれだ。妙に行間や字間が広くてページがスカスカしていた。「膨らみきった風船が割れる直前のように、なにもかもがうまくいき過ぎていた。」みたいな、ダサい比喩表現がやたらと多かった(まあそのおかげで、ゴーストライターではないだろうことは推測できる)。それでも、『胸懐』には引きずり込まれた。それだけのパワーがあった。

 

TAKUROは周知の通り函館出身だ。母子家庭に育っており、少年期はかなり苦しい環境だったらしい。『胸懐』を読んでいて打ちのめされるのは、TAKUROの徹底したリアリストぶりだ。自分が田舎者であること。貧乏人であること。ルックスにも恵まれていないこと。全部引き受けたうえでじゃあどうしようと考える。TAKUROの母はインチキ宗教にだまされて借金を作っていて、初めてのヒット曲の印税でそれを完済したところきっぱり正気に戻った。その経験から「お金で解決できる不幸は山ほどある」ときれいさっぱり言い切る。甘っちょろさみたいなのが微塵もない。

 

函館のような地方都市だから、ポップミュージックといえばビートルズ尾崎豊だった。ヒップホップとかのアメリカの最先端の音楽なんて入ってこなかった。だからビートルズを目指す。それだけ。貧乏人だからこそ、お金で解決できる範囲のことは解決する。それだけ。ルックスが良くないから、ルックスの良い奴とバンドを組む。それだけ。このきっぱりとした態度。

 

自分のことを考えてしまう。僕は札幌で生まれ育って90年代に青春を過ごした。現在のオシャレバンド筆頭であるサカナクションの前身バンドが、まだそこで活動していた。東京で流行っているような最先端のポップカルチャーにも、頑張ればアクセスできた。しかしそれにはセンスのいい友達とか、そういう必要条件があった。一人ぼっちではアクセスできない。そこが東京と違う点だった。コミュ障がコミュ障のままセンスを磨くことができない場所だった。それでいて、TAKUROのように開き直ることができない。中途半端にでかい街に生まれ育ったばかりに、センスも人間性も何もかもが中途半端なまま今に至ってしまっている。

 

彼女はGLAYの魅力を「ダサくて、カッコいいこと」と言っていた。これは、「ダサさがカッコいい」という意味では断じてない。メンバーの中にダサい奴とカッコいい奴がそれぞれいるという意味でもない。ダサさとカッコよさは全く別のもので、両立しているのがGLAYの魅力なのだと。でも僕はなかなかその感覚が理解できない。GLAYの曲には好きなものはあるのだが、その「ダサくて、カッコいい」という感覚がどうにもわからないから、好きだと言い切るのに罪悪感が出る。たぶんそれは、僕がまだまだ覚悟を決めて自分の生い立ちを引き受けるということを十分に出来ていないからなのだ。

 

今からGLAYを好きになるのはけっこう勇気が要る。たぶん今から聖飢魔IIのファンになる方が気楽だ。聖飢魔IIは「ダサさが一周回ってカッコいい」なので、まだ理解できるのだ。平成も終わりを迎えようというこの時期に、GLAYを好きになることは許されるのだろうか。でもそのことに自分の中で折り合いをつけない限り、一緒に暮らす彼女のことだって、僕は完全に理解することができないのだろうな。

 

 

胸懐

胸懐